感動の実話 リスト

 NO 題  著者   備考
 1  慈母の美学  一色 宏  
 2  辰男は何のために生きたのか  伊藤 隆二  
 3  遺言の美学  一色 宏  
 4  峠の落とし文  樋口 和博  
 5  ボーランドと日本    
 6      
 7      
 8      
 9      

1、 「慈母」の美学

日本民主主義文学の代表作とされた小林多喜二の「蟹工船」は、労働搾取を強行することで巨利を占める蟹工船の実態を素材とし、その労働者の悲惨な自己の運命にさからって集団的な闘争に立ち上がってゆく過程を描いた、社会性の本質と高度なヒューマニズムにあふれた作品であった。

当時銀行員であった小林多喜二は「不在地主」発表後銀行を解雇され、翌年上京後、治安維持法違反で特高警察に検挙される。取り調べは厳しく、竹刀やムチで打たれ、柔道で投げられ、目は腫れ、口は裂け、髪の毛もずぼっと抜ける拷問の毎日であった。

多喜二はやがて東京・多摩の刑務所に移される。刑務所の情けによって、北海道の小樽にいる多喜二のお母さんに面会が許されることになる。刑務所から届いた手紙を読んでもらうと、5分間だけ面会を許すとのこと。指定された日時はいまから3日後の午前11時となっていた。多喜二のお母さんは手紙を読んでくれた人に「5分もいらない。1秒でも2秒でもいい。生きているうちに多喜二に会いたい」と訴えた。

貧乏のどん底であったため、近所の人にやっと往復の汽車賃だけを借りて、その夜雪の舞う小樽を発つが、雪のため汽車は途中で止まってしまった。しかし6キロ先の駅まで雪道を歩いて前の汽車に乗り継ぎ乗り継ぎして、多喜二に会いたい一心で、指定時間の30分前に刑務所に着くことができた。

看守はその姿を見てあまりにも寒そうなので火鉢を持ってきたが、お母さんは「多喜二も火にあたっていないんだから、私もいいです」と、火鉢をよたよたと持って面会室の端っこに置いた。別の看守はうどんを温め直して差し出すが「多喜二だって食べないからいいです」と拒否。

時間ぴったりに看守に連れられて面会室の現れた多喜二は、お母さんを一目見てコンクリートの床に頭を着けたまま「お母さんごめんなさい」と言ったきり、顔が上げられなかった。すると看守が「ほらよく見ろ」と顔を上げさせたが、多喜二はまた「お母さん、申し訳ありません」と言い、両目から滝のような涙を流してひれ伏してしまった。

わずか5分の面会時間、言葉に詰まったお母さんを見かねた看守が「お母さん、しっかりしてください。あと2分ですよ。何か言ってやって下さい」ハッとしたお母さんは多喜二に向かって「多喜二よ、お前の書いたものは一つも間違っておらんぞ。お母ちゃんはね、お前を信じとるぞよ」その言葉だけを残して小樽へ帰っていった。

その後多喜二は出獄したが、今度は築地警察署の特高に逮捕され、太いステッキで全身を殴打され、体に何カ所も5寸釘を打ち込まれる拷問によってその日のうちに絶命する。

多喜二の最期の言葉は「あなた方は寄ってたかって私を地獄へ落とそうとしますが、私は地獄には落ちません。なぜなら、どんな大罪を犯しても、母親に信じてもらった人間は必ず天国に行くという昔からの言い伝えがあるからです。母は私の小説は間違っていないと信じてくれました。母は私の太陽です。母が私を信じてくれたから、必ず私は天国に行きます」そう言って、彼はにっこり笑ってこの世を去った。

御義口伝に云く「大慈とは、母の子を思う慈悲の如し」詩人は謳う。苦しみの涙のなかでもほほえみを忘れない人。母は太陽、母は大海、母は春風、母はひまわり。 


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2、<辰男は何のために生きたのか>「なぜ“この子らは世の光なり”か─真実の人生を生きるために」
           伊藤隆二著 樹心社(発売・星雲社TEL:0425(77)2778の一節より。

(一)十歳になった直蔵は、この三十数年の、過ぎ去った日々を思い出すことが多い。
辰男もとうとう三十歳になったかと思うと、長かったような、短かったような。
直蔵は、N市の郊外の高台に建っている、100床ほどある病院の院長で、病人とその家族から絶大な信頼をうけている。彼の父親も医者で、同じN市の中心に小さな医院を開いていたが、直蔵は持ち前の馬力と才覚で、徐々にベッド数を増やして行き、とうとう今の病院に発展させた。

いまから三十数年前の、青空がさわやかにひろがった5月1日のことだった。結婚3年目の光代が、いつものように早朝、表玄関を開けると、赤ん坊の泣き声が門の外から聞こえてくる。
どうして、こんな時刻に、といぶかりながら外へ出て見ると、玄関脇に、誰が敷いたのか赤い毛布が広げられていて、その上にうつ伏せの姿になって、泣いている子供がいる。
驚いて光代が赤ん坊を抱き上げた。あてがわれているおむつの脇から、柔らかい便が流れ落ちた。赤ん坊は、さらに火がついたように声を張り上げた。辺りを見まわしても、人影は無い。
光代は、とりあえず医院の中に赤ん坊を連れもどり、直蔵に見せた。
熱のため、顔が赤い。急いで肌着を脱がせると、背中から、角封筒が落ちた。彼は手当てをしながら、妻にその中を開かせ、読んでもらった。
「親愛なる大石先生。この子をよろしくお願いいたします。愚かな母より」文面はそれだけだった。その封筒には千円札が五枚入っていた。直蔵は、捨て子として役所に届けようかと思った。が、何かを感じとった光代は、未知の方だが、わたくしたちはこんなに信頼されているんです。わたくしたちの手で、できるところまで育ててみましょう、と申し出た。直蔵と光代の間には一歳になったばかりの真太郎が居たが、この赤ん坊もほぼ同じぐらいに思われた。干支にちなんで「辰男」と命名された。

(二)光代の胸は躍っていた。一人よりも二人の方が育てがいもあるし、実際に楽しかった。そんな妻の様子を見て、直蔵は辰男を預かって良かった、と喜んだ。
ところが、真太郎の方は「育児書」通りに言葉も増え、歌を覚え、やんちゃになっていくのに、辰男は歩き出すのも遅く、言葉もなかなか出なかった。
三歳になり、保健所で健診を受けると、耳も聞こえていないことがわかった。専門の違う直蔵は「耳鼻科」の友人に詳しく診てもらうと、知恵も遅れている、と言われた。年齢が長ずるにつれて、真太郎と辰男の成長差は開く一方だった。この子を捨てた母親は、発育の遅いわが子に気づき、育てる自信を失っていたのかもしれない(ほかにもっと重大な事情があったのかもしれない)。
そろって小学校一年生になったが、辰男は初めから「特殊学級」に通うことになった。一方、真太郎は聡明な子供どもとして注目を集めるようになっていった。とは言え、直蔵も光代も辰男を差別するようなことは全くなかった。同じように気を配った。

しかし、二人の性格は大きく違っていくように見えた。
辰男はおっとりしていて、自己主張することはほとんどなかったが、真太郎は勝気で、どこまでも我を通す傾向があった。腹が立つことがあると、よく辰男をいじめた。学業成績は抜群で、小学校を終えると、この地方では最優秀児の集まっている私立中学校に進学した。辰男は中学校でも「特殊学級」に通った。言葉は全く出なかったが、働き好きで、よく光代の家事手伝いをした。彼女は辰男が不憫であり、それ以上にいとおしかった。「できない」子供ではあったが、辰男の中にある「良さ」を感知していた。

小学校三年生の運動会の時に、こんなことがあった。真太郎も辰男もグランド一周の徒競走に出た。駆ける組みは違っていた。最初の組に真太郎が入っていた。彼は七人の集団の二番目を走っていた。ところがカーブにさしかかった所で先頭の子供が足がもつれて倒れたために、真太郎は一等で入賞した。観客の中にいた光代は何か複雑な気持ちになって、胸が穏やかでなかった、とわたしに語った。ところが辰男が出る番になった。彼は動作も鈍いので、ビリになるのではないかと、光代は心配だった。「でもいいわ、なんとか最後まで走ってくれれば、うんと褒めてあげよう」と、彼女はレースを見守っていた。
珍しいことに、というよりも奇跡というべきか、辰男は二番目を走っている。先頭との距離は七、八メートルはあるが、まぎれもなく二位なのだ。光代は胸が躍った。が、真太郎のときと全く同じく、先頭を行く速い子どもがカーブで足をすべらして、頭から大地につんのめってしまったのである。

観客一同、「ワーッ」と声をあげた。「それ、チャンスだ」「追い越せ」とまわりの人たちがドタバタ足で二番目を行く辰男に声援している。
ところが、辰男はその倒れた子どものところまで行くと、立ち止まり、抱き起こし、そして肩にかつぐようにして、トボトボと歩き出したのだ。そのあいだに、後ろからついて来た六人のクラスメイトは、二人をどんどん追いぬいて行ってしまった。二人がかなりおくれてゴールにたどりついたとき、周囲の人たちは口々に揶揄した。「あの子を見ろ、なんておろかな」「きっとあの子はこうよ」そう言って、指で空に向かって蚊取線香の形を描いた人もいた。光代は、胸がつまった。涙がとめどもなく丈「に流れ落ちた。うれしかったのである。「辰ちゃん、いいわ。素晴らしいわ」彼女は、辰男がいっそういじらしく思えたのだった。

(三)真太郎は私立中学校から受験高校へ、そしてK大学の医学部に進学し、医者になる道を歩んでいった。一方、辰男は中学の「特殊学級」をおえても、就職はできなかった。しかし、その頃は、大石病院にとっては、文字どおり、かけがえのない存在になっていたのである。
入院患者からも看護婦たちからも「辰ちゃん、辰ちゃん」と呼びとめられていた。患者のしびんを運び、看護助手の雑用の手伝いに嬉々として励んでいたからである。彼にはイヤなことは一つもなかった。いや、だれもがイヤがる仕事ほど、彼にとってはやりがいがある風だった。患者が嘔吐した後の片づけや、排便の始末や、食事の後の皿洗いなどは、「これこそが僕の出番」とばかりに、辰男は精魂を込めてきれいにやってのけるのである。
そればかりではない。大石病院は高台に建っているのであるが、病棟が五つに分かれている上に敷地が起伏に富んでいるためにかなり急な登りや下りを通らねばならない。医者たちも看護婦たちも、急ぎの届け物があると、辰男に頼まねばならない。彼はその荷物運びが得意なのである。
つらいことだってあるだろう。特に雨風の激しい日や、大雪のときは、遠くはないとは言え、坂道を登ったり、下ったりするのは、相当に疲れることだ。しかし、「辰ちゃん、頼むよ」と言われると、ニッコリ笑って、正確にやってくれる。
直蔵は、そうした辰男の働きぶりを見て、これはこの子の天性なのではないか、と思うこともある。自分たちが教えたわけではないし、「特殊学級」の成果とも言えない。自分たちの息子である真太郎は、頭脳は優れていて、努力家だが、家事は嫌いだし、人望もこれほどではない。自分の後を継いで、この病院を維持してくれるだろうが、患者たちから、本当に喜んでもらえる病院にしてくれるかどうか。
直蔵の目には、真太郎は人格の中心に「他に喜んで尽くす心」が無い用に見える。それが一番の心配ごとだった。何かにつけて自慢をし、何かにつけて他を批判する真太郎に「冷たさ」を感じているのは、光代も同じだった。
医学部を終えた真太郎は、当然のことのように大石病院の医師になった。専門は外科であったので、大石病院はさらに外科病棟を建て増しし、患者を入院させることになった。彼は張り切って仕事にあたった。腕は確かであった。難しい手術もこなせるようになった。その点で、彼は有能な医者であり、実際役に立つ存在であった。しかし、そのような実績を上げれば上げるあげるほど、真太郎はうぬぼれ、尊大な姿勢を示すようになっていった。
患者たちは「若先生、若先生」とあがめるものの、内心では〈なんて、横柄な医者だろう〉と敬遠しているようだった。
その真太郎も三十歳をすぎ、大石病院の次長のポストについた。直蔵は、いつかは息子を院長に就けたいと思ってはいるが、何か安心してそのポストを渡せない、複雑な気持ちで、毎日を過ごしている風だった。
ぼんやりと考え込んでいると、院長室に辰男がニコニコしながら、荷物を運んできた。額に汗が光っていた。「おう、辰男か。ありがとう。いつも済まないね」と労をねぎらうと、辰男はさも嬉しそうに、また大きくニコッと、白い歯を見せた。

辰男は、とうとう、言葉を出せなかった。専門家にもずいぶん治療してもらったが、赤ん坊の時の脳の障害と耳の故障のために、成功しなかったのだ。知能は小学二、三年程度ではないかと思われるが、彼はそのようなことはどうでもよいというように、ニコニコしながら、人のイヤがる仕事に精を出していた。
直蔵はそんな辰男の姿を見ながら、またまた考え込んでしまうのだった。
「真太郎は外科医として有能であり、大いに役に立っているが、どれほど役に立つかということで人間としての価値が決まるものではない。辰男も一応役に立っているが、真太郎には遠く及ばない。掃除や荷物運びは、特に知性を必要としない。小学生でも少し訓練すればできることだ。しかし、辰男の存在は偉大だ。患者たちからも、他の医者や看護婦からも皆に愛され、また本人も大勢の人たちを喜ばせ、無言のうちに励ましている。役に立つということよりも彼の存在そのものが、この病院を支えている。いや、この病院だけではない。患者が退院したあとも『辰ちゃん、辰ちゃん』と慕ってくる。患者の家族も、辰男の笑顔を見ると、安堵するという。
人間にとって何が最も尊いのだろうか。何が人間存在の価値を決めるのだろうか」

(四)真太郎も辰男も三十二歳になっていた。十一月のある風の強い夜のことだった。外科病棟から真っ赤な炎が黒い天空になびいているのが発見されたとき、けたたましい人々の叫び声がこだました。直蔵と光代が目を覚ましたときは、外科病棟は火の海だった。
入院患者のうち早く脱出できた人たちは、隣の内科病棟に収容されたが、重病人や火事に気づくことが遅かった患者、合計四人が焼死体で発見された。いえ、もう一人の男性が外科病棟の裏にある池の中で死体となって見つかった。辰男であった。

内科病棟に収容された患者たちは、気持ちがおさまると、口ぐちにこう言った。
「誰かが、ベッドから私をかついで、外へ出してくれたんです。暗くてよくわからなかったのだが……」
「私もそうだった。その頃は天井が落ち、壁は燃えていた。
しかし、誰かが、死にものぐるいになって私を運び出してくれた」「その人は、私を外へ運び出すと、再び燃えている病棟の中へ駆け込んでいった」「私も、だれかに運び出された。その人は真っ黒い顔をしていたので、誰だか判らなかった」

辰男はその晩は外科病棟の片隅の仮眠室で眠っていた。異様な臭いに、ハッと目が覚めた時は、すでに火の手が上がっていた。
彼は、反射的に真太郎の部屋に直行していた。しかし、そこはすでに焼け落ちていた。誰も居ないと知ると、病室へ回った。そこに眠っている患者を叩き起こした。
足の不自由な者、手術後間もない患者を彼は知っていた。そうした患者を一人、また一人と、彼は担いで外へ運び出したのであるが、彼の背中に火が移り、すでに上半身は火傷を負っていた。
しかし、彼はひるまなかった。また一人、また一人と、患者を外へ連れ出したころ、病棟はすでに崩れていた。あまりの熱さに、彼は浦野池に飛び込んだのだ。
火事の原因は、手術がうまくいかなかった真太郎が、自分の部屋でウイスキーをがぶ飲みし、眠りこんでいるうちに、ベッドのそばにある石油ストーブを蹴とばしたことによる。
火事に気づいた彼は、真っ先に逃げ出していたのである。

辰男の墓は大石病院の玄関わきに立っている。そこは一歳の辰男が泣いていた、その場所である。参拝者は今も絶えない、という。
命日には、きまって名を言わない初老の女性がやって来て、両手を合わせ、深く頭を下げて行く、という。すでに大石病院の火災から数年が経った。


*辰男の生涯について、著者の伊藤隆二氏はその著『なぜ「この子らは世の光なり」か』につぎのようにコメントしています。
辰男の出生は不明のままであった。しかし、直蔵と光代という両親を得た。二人は長男の真太郎と差別することなく、辰男を育てていくが、力の違いは人為を超えていた。宿命というのかもしれない。力の点で、はるかに勝る真太郎が富と地位と名誉と安楽な暮らしを得るのはこの世の習いというものだったろう。しかし、逆に聴力と知力の面でハンディキャップを負っている辰男にはそうした世の習いは無縁であった。多分、辰男に知力をつける“教育”を施せば、それなりに知力は発達していったかもしれない。そしてその発達した知力に応じて富や地位も得られたかもしれない。しかし、そのようなこの世でものをいう富や地位は決して光りになりえないことを辰男は知っていたに違いない。「この子らを世の光りに」というとき、多くの人は「この子らもできるのだ」「(隠れていた)絵の才能や音楽の才能を発揮させるのだ」「手工芸だって、機械の部品の組み立てだって、農耕や飼育だって、やればできるのだ」「そういう能力を発揮させれば、この子らも世に認められる、世に役立つことで存在価値は定まるのだ」「この子らは無価値だ、役立たずだ、マイナスの存在だと侮っていた人々に、この子らだって大したものだろう、と一泡吹かせてやるのだ」といった心境になるのかもしれない。
じっさい、この子らが在学している学校(学級)や、居住している福祉施設の中には、絵や歌や手工芸やその他の“業績”で世の脚光を浴びているところもある。それらの“業績”を知
った人たちは「この子らでも頑張ればやれるものだ」「大したものだ」「わたしも頑張らねば」──と感想を抱くことが多い。
しかし、辰男にはそうしたたぐいの“業績”は何もなかった。“業績”をあげるための能力や才能は無きに等しかったからだ。したがってこの世のならい、つまりは世間でいうモノサシで測る限り辰男は無価値だった。無価値な人間を「教育書」に登場させるということは、これまでは一度もなかった。それはそのはずである。教育は価値を実現する活動であり、すべての「教育書」はそのためのノウ・ハウを紹介することを使命としていたのだから。

『この子らは世の光なり』に登場する子どもたちは、辰男に限らず、“はやく、たくさん、じょうずに”できない。できないから世間でいうモノサシで測れるような“業績”はあげていない。それゆえに無価値な存在だといわれれば、そのとおりだ。しかし、この本の読者はよく「目が開かれた」という感想を送ってくださる。辰男はこれといって役立つことはしていないのであるが、病院のだれもが「辰ちゃん、辰ちゃん」と慕っている。はっきりいうと、愛している。辰男は能力や才能は無きに等しいし、それゆえに“業績”で貢献することはできないのであるが、人間として最も大切な「愛」を惜しみなく与えつづけ、その生涯を閉じた。そして今でも永遠の生命を輝きつづけている。
   ⇒  http://www6.ocn.ne.jp/~okuguti/yonohika.htm   N市大石病院

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3「遺言」の美学

1945(昭和20)年8月の敗戦でソ連軍に捕われ、シベリアの収容所に連行された日本人は609716人と言われる。俘虜収容所は1200カ所、極寒の異郷の地で、飢えと重労働の日々、望郷の思いを抱いたまま果てた人びとの数は、7万人以上と言われている。山本幡男氏もまた、帰国の日を待ちわびつつ死んでいった人びとの一人であった。しかし、氏が強制収容所で秘かに書いた遺書が、戦後11年ぶりに帰還した友人たちにより、『記憶』と言う尋常ならざる手段によってほぼ完璧な形で遺族に届けられたのである。この山本氏こそ極厳の逆境のただ中で希望を捨てず、ほかの収容者たちに生きる希望や夢を与えた。その武器となったのは文学の力であった。重労働と空腹の日々を句会によってまぎらわし、やがて夢中になり、耐え抜く力となった。ソ連兵の監視をのがれて、地面に棒きれで字を書いて、句を詠み合った。とくに文字を書き残すことはスパイ行為と見做され抜き打ちの私物検査で、日記やメモなどが見つかって営倉送りになった者もいた。山本氏は死の直前、寝返りも打てぬほどの激痛のなか、わずか1日のあいだに隠しもったノートに15頁もの遺書を書きあげ信頼できる友数人に託した。

『……この収容所において親しき交わりを得たる良き人々よ!この遺書はひま有る毎に暗誦、復誦されて、一字、一句も漏らさざるやう貴下の心肝に銘じ給え。心ある人々よ、必ずこの遺書を私の家庭に伝へ給へ。』友人たちは、これは山本個人の遺書ではない、ラーゲリで空しく死んだ人びとと全員が祖国日本人すべてに宛てた遺書なのだ、と思った。特に「子供等へ」には『…さて、君たちは、之から人生の荒波と闘って生きてゆくのだが、君たちはどんな辛い日があらうとも光輝ある日本民族の一人として生まれたことを感謝することを忘れてはならぬ。日本民族こそは将来、東洋、西洋の文化を融合する唯一の媒介者東洋のすぐれたる道義の文化---人道主義を以て世界文化再建に寄与し得る唯一の民族である。この歴史的使命を片時も忘れてはならぬ。また君達はどんなに辛い日があらうとも、人類文化創造に参加し、人類の幸福を増進するといふ進歩的な思想を忘れてはならぬ。偏頗で矯激な思想に迷ってはならぬ。どこまでも真面目な、人道に基く自由、博愛、幸福、正義の道を進んで呉れ。最後に勝つものは道義であり、誠であり、まごころである。友だちと交際する場合にも、社会的に活動する場合にも、生活のあらゆる部面において、この言葉を忘れてはならぬぞ。人の世話にはつとめてならず、人に対する世話は進んでせよ。但し、無意味な虚栄はよせ、人間は結局自分一人の他に頼るべきものが無い――といふ覚悟で。強い能力のある人間になれ。自分を鍛へて行け!精神も肉体も鍛へて、健康にすることだ。強くなれ。自覚ある立派な人間になれ。…要は自己完成!しかし浮世の生活のためには致方なしで或る程度打算や功利もやむを得ない。度を越してはいかぬぞ。最後に勝つものは道義だぞ。君等が立派に成長してゆくであろうことを思ひつつ、私は満足して死んでゆく。どうか健康に幸福に生きてくれ。長生きしておくれ。最後に自作の戒名・久遠院智光日慈信士』
・・・この命を賭けた遺書は、戦後の日本人へのメッセージとも言えるのではなかろうか。
                                                               未来創庵 一色 宏

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4、  随 感   峠の落し文(18)M少年のこと
                           樋口 和博

 MさんはK市で飲食店を営み、この地域の保護司や民生委員をやり、その街の非行少年の相手になったり、恵まれない人達の面倒を見たりして、社会事業に情熱を傾けている有力者である。
あれはもう、随分前のことであった。髪の毛が逆立ち、反抗心のかたまりのように見えるM少年が、家庭裁判所の審判廷に現れた。裁判官の前で両手をポケットに突っ込み、着席すると同時に「ふーん」と顔をそむけた。

暴行傷害事件などで、家庭裁判所の調べを受けたことが数回あり、その後、保護観察処分になったが失敗し、非行少年の収容施設の補導委託先を二度も逃げては事件を起こし、今度も補導委託中に逃出して傷害事件をやり、家庭裁判所の審判に廻された身柄付の少年である。

調査官の取調べの段階で、今度こそ少年院送致決定になることは、本人も充分覚悟していると見える。本人の取調べを終えて決定の言い渡しをしようとすると、「ちょっとお願いがあるのですが」といかにも自信のなさそうな声で言い出した。「今度、少年院に送られることは覚悟していますが、その前に一度だけ母親に合わせて欲しいのです。今日の審判には母親を呼んでもらったというのに出て来ていません。度重なる犯罪で、今度こそもう私のことなどすっかり諦めているだろうと思われますが、世界中でただ一人きりの母親にだけはまだ見捨てられたくないんです。私が立直って出て来るのを待っていてくれると約束してから少年院に行きたい。今度一晩だけ母親と一緒に過ごして来たいのです。

一晩だけでいいから母親の処に帰して貰えませんか」と言って先程の猛々しさとは反対に、誠にしおらしい態度で懇願する。「こんなに多くの前歴があり、このような態度の悪い少年を帰宅させたら帰ってきませんよ」と言うのが、調査官の先生はじめ、関係者の強い反対意見であった。私もこの少年を一時帰宅させることの危険性を承知していたが、彼を立直らせる為には、この機会に、だまされてもいいから、一度本人の言分を聞いてやってみようと考えたあげく、一晩帰宅させることにした。

帰宅を許してやると言われた彼は「先生、本当に帰してくれるんですか、大丈夫ですか」と何遍も念を押す。「大丈夫ですか、とは一体何のことか」と聞くと、「先生の言葉が信じられない。私が逃げて帰って来ないという心配をしないですか」と言う。

「大丈夫、私が君を信用して太鼓判を押して帰宅を許す以上、安心して行って来なさい。そして明朝九時までに必ず判事室に出頭するように。そしてお母さんともじっくり話して来なさい」と言って帰してやった。

思いきって帰宅を許したものの、彼の前歴からみて、果たして約束通り帰ってくれるかどうか、不安のために、私はその日、なかなか眠れない一夜を過ごした。

翌朝早々に登庁してみると、驚いたことに、M君はもう既に裁判所に来て、私を待受けていた。9時10分ほど前である。お袋さんから貰ってきたという大きな荷物を両腕に抱えていた。私の顔を見ると、彼はにっこり笑った。

彼は約束を守ったのである。

着席すると同時にM君は、こんなことを言い出した。「私は物心がついてから今日まで誰からも信用されたことがありませんでした。学校の先生からも、警察は勿論のこと、保護司の先生からも、補導委託先の先生達も、ただ一人のお母さんさえも、一度も私のことを本当に信用してくれたことがなかったんです」と言い、ちょっと間をおいて、「私がグレだしたのも、あれは中学二年の頃、学校で盗難事件があり、当時から私が反抗心の強い生徒だったことから、全く身に覚えのないのに疑いをかけられ、それからというもの、何か事件があると、あれはMの奴がやったんだと疑われるようになりました。私はそんなことから、ひとの言うことは絶対に聞くまいと決心したんです」と言ってちょっとしゅんとした。
「今度、私は裁判官の先生に一日の帰宅をお願いしたときも、これだけ前歴があり、態度の悪い私の帰宅を許してくれるなど夢にも考えておりませんでした。どうせ私の言うことなど信用してくれないし、許可してくれないことは決まっているから、少年院に送られる途中で、私を連れてゆく裁判所の職員を突き飛ばして逃げてやるつもりでいたんです。

ところが全く意外にも先生は帰宅を許してくれました。私の言うことを信用してくれたのです。私は内心飛び上がるほどびっくりしました。そして、これは困ったことになったなぁと考えました。先生から信用されたことで、どうしていいか解らなくなりました。はじめて私を信用してくれた先生を騙すわけにはゆかないと考えはじめたわけです。

私は帰宅して母に会いました。こわめしを作ってくれました。寒くなるからというので、手縫いの衣類も沢山持たせてくれました。そして母親に今度こそ立直ります、と約束してきたのです。本当に有難うございました」と言って、涙を流している。あのふてくされた少年とは見違えるような、しおらしさと明るさに、私は胸が熱くなった。中等少年院送致決定を受けて深々と頭を下げ、「ありがとうございました。元気で行って来ます」と言って明るい顔で出てゆくM少年の後姿を、私は晴々とした気持ちで見送った。
この少年こそが冒頭に述べたK市における屈指の社会事業家として働いているMさんの若き日の姿であった。

この頃の所謂つっぱり少年達の中には、最初から疑いの目で見られ、家庭に対し、世間に対し不信感でかたまったような少年も多い。私達は、あるときには騙されることを恐れずに、これを信じてかかることがあってもよいのではないだろうか。(弁護士・元裁判官)

                                   昭和58(1983)年4月記  「宇宙」 春季号 平成22年4月5日発行

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5、ポーランドと日本   参考⇒ポーランド魂と大和魂

ポーランド人は何故これほど親日的なのか」。この答えを探し求めるうちに、
浮かび上がってきた心温まる話の数々―。

内容

飢餓と疾病のシベリアからポーランドの孤児を救った大正日本。その恩に報い、
阪神大震災の被災児を招待したポーランド。知られざる日本との友好史など、
現地で4年を過ごした著者が伝えるポーランドの素顔。

765名のポーランド孤児をシベリアから救出 した日本 傑作(1)
2007/7/17(火) 午後 5:29政治歴史 Yahoo!ブックマークに登録 765名のポー
ランド孤児をシベリアから救出 した日本

 シベリアは長い間、祖国独立を夢見て反乱を企てては捕らえられたポーラン
ド愛国者の流刑の地だった。1919年、ポーランドがロシアからようやく独立し
た頃、ロシア国内は革命、反革命勢力が争う内戦状態にあり、極東地域には政
治犯の家族や、混乱を逃れて東に逃避した難民を含めて、十数万人のポーラン
ド人がいたといわれる。

 その人々は飢餓と疫病の中で、苦しい生活を送っていた。とくに親を失った
子供たちは極めて悲惨な状態に置かれていた。せめてこの子供達だけでも生か
して祖国に送り届けたいとの願いから、1919年9月ウラジオストク在住のポー
ランド人によって、「ポーランド救済委員会」が組織された。 しかし翌20年
春にはポーランドとソビエト・ロシアとの間に戦争が始まり、孤児たちをシベ
リア鉄道で送り返すことは不可能となった。救済委員会は欧米諸国に援助を求
めたが、ことごとく拒否され、窮余の一策として日本政府に援助を要請するこ
とを決定した。

 救済委員会会長のビエルキエヴィッチ女史は20年6月に来日し、外務省を訪
れてシベリア孤児の惨状を訴えて、援助を懇請した。 女史の嘆願は外務省を
通じて日本赤十字社にもたらされ、わずか17日後には、シベリア孤児救済が
決定された。独立間もないポーランドとは、まだ外交官の交換もしていない事
を考えれば、驚くべき即断であった。

 日赤の救済活動は、シベリア出兵中の帝国陸軍の支援も得て、決定のわずか
2週間後には、56名の孤児第一陣がウラジオストクを発って、敦賀経由で東
京に到着した。それから、翌21年7月まで5回にわたり、孤児375名が来日。
さらに22年夏には第2次救済事業として、3回にわけて、390名の児童が来
日した。 合計765名に及ぶポーランド孤児たちは、日本で病気治療や休養
した後、第一次はアメリカ経由で、第2次は日本船により直接祖国ポーランド
に送り返された。習慣や言葉が違う孤児たちを世話するには、ポーランド人の
付添人をつけのがよいと考え、日赤は孤児10名に1人の割合で合計65人の
ポーランド人の大人を一緒に招くという手厚い配慮までしている。

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 日本に到着したポーランド孤児たちは、日赤の手厚い保護を受けた。孤児た
ちの回想では、特に印象に残っていることとして以下を挙げている。 ウラジ
オストックから敦賀に到着すると、衣服はすべて熱湯消毒されたこと、支給さ
れた浴衣の袖に飴や菓子類をたっぷ入れて貰って感激したこと、特別に痩せて
いた女の子は、日本人の医者が心配して、毎日一錠飲むようにと特別に栄養剤
をくれたが、大変おいしかったので一晩で仲間に全部食べられてしまって悔し
かったこと、、、 到着したポーランド孤児たちは、日本国民の多大な関心と
同情を集めた。

 無料で歯科治療や理髪を申し出る人たち、学生音楽会は慰問に訪れ、仏教婦
人会や慈善協会は子供達を慰安会に招待。慰問品を持ち寄る人々、寄贈金を申
し出る人々は、後を絶たなかった。

 腸チフスにかかっていた子供を必死に看病していた日本の若い看護婦は、病
の伝染から殉職している。 1921(大正10)年4月6日には、赤十字活動を熱
心に後援されてきた貞明皇后(大正天皇のお后)も日赤本社病院で孤児たちを
親しく接見され、その中で最も可憐な3歳の女の子、ギエノヴェファ・ボグダ
ノヴィッチをお傍に召されて、その頭を幾度も撫でながら、健やかに育つよう
に、と話された。

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 このような手厚い保護により、到着時には顔面蒼白で見るも哀れに痩せこけ
ていたシベリア孤児たちは、急速に元気を取り戻した。 日本出発前には各自
に洋服が新調され、さらに航海中の寒さも考慮されて毛糸のチョッキが支給さ
れた。この時も多くの人々が、衣類やおもちゃの贈り物をした。 横浜港から、
祖国へ向けて出発する際、幼い孤児たちは、親身になって世話をした日本人の
保母さんとの別れを悲しみ、乗船することを泣いて嫌がった。埠頭の孤児たち
は、「アリガトウ」を繰り返し、「君が代」を斉唱して、幼い感謝の気持ちを
表した。 神戸港からの出発も同様で、児童一人ひとりにバナナと記念の菓子
が配られ、大勢の見送りの人たちは子供たちの幸せを祈りながら、涙ながらに
船が見えなくなるまで手を振っていた。 子どもたちを故国に送り届けた日本
船の船長は、毎晩、ベッドを見て回り、1人ひとり毛布を首まで掛けては、子
供たちの頭を撫でて、熱が出ていないかどうかを確かめていたという。その手
の温かさを忘れない、と一人の孤児は回想している。

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 こうして祖国に戻った孤児たちの中に、イエジ・ストシャウコフスキ少年が
いた。イエジが17歳の青年となった1928年、シベリア孤児の組織「極東青年
会」を組織し、自ら会長となった。極東青年会は順調に拡大発展し、国内9都
市に支部が設けられ、30年代後半の最盛期には会員数640余名を数えたと
いう。

 極東青年会結成直後にイエジ会長が、日本公使館を表敬訪問した時、思いが
けない人に会った。イエジ少年がシベリアの荒野で救い出され、ウラジオストッ
クから敦賀港に送り出された時、在ウラジオストック日本領事として大変世話
になった渡辺理恵氏であった。その渡辺氏が、ちょうどその時ポーランド駐在
代理公使となっていたのである。

 これが契機となって、日本公使館と、極東宣言会との親密な交流が始まった。
極東青年会の催しものには努めて大使以下全館員が出席して応援し、また資金
援助もした。

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 1939年、ナチス・ドイツのポーランド侵攻の報に接するや、イエジ青年は、
極東青年会幹部を緊急招集し、レジスタンス運動参加を決定した。イエジ会長
の名から、この部隊はイエジキ部隊と愛称された。

 そして本来のシベリア孤児のほか、彼らが面倒を見てきた孤児たち、さらに
は今回の戦禍で親を失った戦災孤児たちも参加し、やがて1万数千名を数える
大きな組織に膨れあがった。

 ワルシャワでの地下レジスタンス運動が激しくなるにつれ、イエジキ部隊に
もナチス当局の監視の目が光り始めた。イエジキ部隊が、隠れみのとして使っ
ていた孤児院に、ある時、多数のドイツ兵が押し入り強制捜査を始めた。

 急報を受けて駆けつけた日本大使館の書記官は、この孤児院は日本帝国大使
館が保護していることを強調し、孤児院院長を兼ねていたイエジ部隊長に向かっ
て、「君たち、このドイツ人たちに、日本の歌を聞かせてやってくれないか」
と頼んだ。

 イエジたちが、日本語で「君が代」や「愛国行進曲」などを大合唱すると、
ドイツ兵たちは呆気にとられ、「大変失礼しました」といって直ちに引き上げ
た。 当時日本とドイツは三国同盟下にあり、ナチスといえども日本大使館に
は一目も二目も置かざるを得ない。日本大使館は、この三国同盟を最大限に活
用して、イエジキ部隊を幾度となく庇護したのである。

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 95年10月、兵藤長雄ポーランド大使は、8名の孤児を公邸に招待した。皆80
歳以上の高齢で、一人のご婦人は体の衰弱が激しく、お孫さんに付き添われて
やっとのことで公邸にたどりついた。

 私は生きている間にもう一度日本に行くことが生涯の夢でした。そして日本
の方々に直接お礼を言いたかった。しかしもうそれは叶えられません。 しか
し、大使から公邸にお招きいただいたと聞いたとき、這ってでも、伺いたいと
思いました。何故って、ここは小さな日本の領土だって聞きましたもの。今日、
日本の方に私の長年の感謝の気持ちをお伝えできれば、もう思い残すことはあ
りません。

と、その老婦人は感涙に咽んだ。孤児たちは70年前以上の日本での出来事を
よく覚えていて、別の一人は、日本の絵はがきを貼ったアルバムと、見知らぬ
日本人から送られた扇を、今まで肌身離さずに持っていた、と大使に見せた。

 同様に離日時に送られた布地の帽子、聖母マリア像の描かれたお守り札など、
それぞれが大切な宝物としているものを見せあった。

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 シベリア孤児救済の話は、ポーランド国内ではかなり広く紹介され、政府や
関係者からたくさんの感謝状が届けられている。そのひとつ、極東委員会の当
時の副会長ヤクブケヴィッチ氏は、「ポーランド国民の感激、われらは日本の
恩を忘れない」と題した礼状の中で次のように述べている。

 日本人はわがポーランドとは全く縁故の遠い異人種である。日本はわがポー
ランドとは全く異なる地球の反対側に存在する国である。しかも、わが不運な
るポーランドの児童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表わしてくれ
た以上、われわれポーランド人は肝に銘じてその恩を忘れることはない。・・


 われわれの児童たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福な日本人の子供が、
孤児たちの服装の惨めなのを見て、自分の着ていた最もきれいな衣服を脱いで
与えようとしたり、髪に結ったリボン、櫛、飾り帯、さては指輪までもとって
ポーランドの子供たちに与えようとした。こんなことは一度や二度ではない。
しばしばあった。・・・ ポーランド国民もまた高尚な国民であるが故に、わ
れわれは何時までも恩を忘れない国民であることを日本人に告げたい。日本人
がポーランドの児童のために尽くしてくれたことは、ポーランドはもとより米
国でも広く知られている。・・・

 ここに、ポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、最も深い感銘、最も
深い感恩、最も温かき友情、愛情を持っていることを伝えしたい。

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「何時までも恩を忘れない国民である」との言葉は、阪神大震災の後に、実証
された。96年夏に被災児30名がポーランドに招かれ、3週間、各地で歓待を
受けた。

 世話をした一人のポーランド夫人が語った所では、一人の男の子が片時もリュッ
クを背から離さないのを見て、理由を聞くと、震災で一瞬のうちに親も兄弟も
亡くし、家も丸焼けになってしまったという。焼け跡から見つかった家族の遺
品をリュックにつめ、片時も手放さないのだと知った時には、この婦人は不憫
で涙が止まらなかった、という。

 震災孤児が帰国するお別れパーティには、4名のシベリア孤児が出席した。
歩行もままならない高齢者ばかりであるが、「75年前の自分たちを思い出さ
せる可哀想な日本の子どもたちがポーランドに来たからには、是非、彼らにシ
ベリア孤児救済の話を聞かせたい」と無理をおして、やってこられた。

 4名のシベリア孤児が涙ながらに薔薇の花を、震災孤児一人一人に手渡した
時には、会場は万雷の拍手に包まれた。75年前の我々の父祖が「地球の反対
側」から来たシベリア孤児たちを慈しんだ大和心に、恩を決して忘れないポー
ランド魂がお返しをしたのである。(終)

 トルコと日本の話がでたので、日本とポーランドの話を載せてみた。
 引用元はこちら。
文字数制限の為、一部編集しています。