15 16 17 18 19 20 21
700
朝食 朝食 朝食 朝食 朝食
800
900 観光 観光
1000 ガイドツアー
③赤坂清隆先生
広報局長
⑥ハジアッチ秀子先生
国連開発計画(UNDP)
1100
1200 池亀先生
ランチブリーフィング
アフリカ特別調整室(OSAA)
ランチ ランチ
1300
④佐藤まさき先生
国連PKO局(DPKO)
⑦益子崇先生
政府開発援助(ODA)
1400 ①田頭麻樹子先生
経済社会局(DESA)
⑤川端清隆先生
国連政務局(DPA)
1500 ②田瀬和夫先生
人道問題調整部(OCHA)
1600 国連内ショッピング
1700
1800
Kick offミーティング
1900 夕食 夕食 夕食 夕食 夕食
2000 フリータイム フリータイム フリータイム フリータイム フリータイム
2100
演 題
①未定 ②人間の安全保障とMDGs ③未定 ④未定 ⑤未定
Challenges of UN’s Support to the government in Achieving MDGs 未定 *MDGs関連の話,未定は演題がきていない。

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池亀美枝子さん
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田頭 麻樹子さん
国連事務局経済社会局 社会政策開発部

http://www.unforum.org/unstaff/img/8-2.jpg

田頭麻樹子(たがしらまきこ):兵庫県芦屋市生まれ。1980年、関西学院大学文学部英文学科卒。インディアナ州立大学大学院高等教育/公共政策修士。JPOに合格、UNVに赴任。国連本部の経済社会開発局、女性局に勤務した後、2004年より現職。

Q.国連に入るまでの経歴を教えてください。 大学生のとき、途上国の現状を知るための大学主催のセミナーに参加して、インドネシアを訪れました。そこで、日本での海外の情報は欧米に偏っている ことやアジアとの交流をもっと進めるべきではということを感じました。水も電気もなく、子どもばかりがあふれている村を訪れたとき、もし私が日本でなくて ここに生まれたら、私の人生は全く違うものになっていたはずだと思いましたね。それが開発の仕事に興味を持ったきっかけです。当時も国連で働くことに関心 はありましたが、自分には手の届かない範囲だと思っていました。ただ、インドネシア・セミナーの先輩に外務省や国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に 就職した方がいて、漠然と憧れは感じていました。

大学卒業後は、日本の民間企業で2年半働きました。当時はまだ女性の地位が低く、入社したての私の仕事と20年働いている女性社員が同じような仕事 をしていたんですね。これでは何年仕事をしても同じだと思ったことと、利益追求のためだけにこれからの人生を過ごすのかという疑問をもったため、母校の関 西学院大学の国際交流センターに転職しました。そこでは、ターで働いた後、院長室勤務のときに、アメリカのインディアナ州立大学に留学し、高等教育と公共政策の修士号を取りました。職場は休職 して留学したので、一旦日本の職場に戻り、このまま日本にいるか、辞めて新しいチャンスをつかむべきかずいぶん迷いましたが、一年後に退職を決めたんで す。その後JPOに合格し、国連開発計画(UNDP)の下部組織である国連ボランティア計画(UNV)に入り、当時本部があったジュネーブで2年間働きま した。

UNDPは毎年150人ものJPOを受け入れる一方で、終了後に正職員になれる人は10人程度であり、生き残るのはすごく難しいんです。外務省に相 談したところ、そのときにたまたま設置されたP3レベルの国連の競争試験を受けてみることを勧められ、受験して合格しました。入ったのは国連本部の経済社 会局(DESA)の前身で、担当したのは社会開発、とくに貧困の問題でした。

Q.現在のお仕事について教えてください。

2004年の10月から国連本部の経済社会局・社会政策開発部で、社会開発と紛争予防・平和構築のリンケージの仕事 に携わっています。社会政策開発部の仕事は1995年のコペンハーゲンにおける社会開発サミットの進捗管理で、1)雇用創出、2)貧困撲滅、3)社会的統 合(social integration)という3つの柱があります。私の所属する課は、高齢者問題、青年問題、身体障害者問題、先住民問題、社会的不平等、などに取り組 んでいますが、これは、社会における弱者を含め、すべての人を内包(inclusive)する社会を作るというという概念に基づいています。すべての人が 参加し、彼らの意見が社会に反映さる社会を作ることが、結果的には、紛争予防や平和構築の第一歩になるという考え方です。

具体的には、社会開発委員会へのレポートを準備したり、イー・ダイアログや専門家会議の運営などをしています。例えば、宗教・カースト、民族等で差 別を受けている人々や、移民、難民、大都市の貧困街など、社会的に疎外されているグループがいる限り、すべての貧困が撲滅できないわけです。もう一つは、 そういう疎外されているグループ内に不平等や不公平に対する不満がたまっていると、何かのきっかけで紛争や、暴動に発展する。専門家会議ではNGO、アカ デミア、シンクタンクなどの人を集めて、これまでの紛争予防や平和維持活動を社会的統合の観点から見て解明していく、ということをやっています。意外と、 紛争の根本的要因は、社会的疎外(social exclusion/ marginalization) にあることが多いんです。アフリカや中東では、今後一層、青年層の失業が増えていくわけですが、こういった社会に参加できない大量の青年の存在は、このま ま何もしないでいると、必ず紛争の火種になることは、容易に推察できます。そういう意味でも、この青年をいかに、紛争後の平和構築に引き入れていくかとい う専門家会議を11月にナミビアで開きます。

Q.これまでで印象に残っているのはどんなお仕事ですか。
一つは、ミャンマーで貧困基準の調査をしたときの経験です。首都だけでなく広く農村で活動をしているミャンマーの農業省、UNDPや日本のNGOで あるオイスカと協力をしていました。そのときに驚いたのは、ミャンマーではジープに揺られて何時間もかけて行くような地方の農村でも、地方自治体の役人が 博士号保持者であったりするのです。教育レベルの高い人たちを自国に留めている。また、ミャンマーの人権侵害が問題になり世界からの援助が止まったとき も、自分たちで道路をつくり始め、無理に思えたような道路をがたがたとはいえ一年で完成させるんですよ。ミャンマーの人たちの、援助に頼らないで自分たち でやろうという自助努力の精神に感心しました。

もう一つは、アフリカでの経験です。私は現在の仕事の前に、6年間女性局で働いており、その間に、紛争に巻き込まれたアフリカ諸国で、平和構築のプ ロセスのなかにいかに女性の視点を入れていくか、という課題に取り組んでいました。女性はいつも紛争の被害者としてだけしか見られがちですが、実際には、 命をかけて、紛争を終わらせるために奔走している女性がたくさんいるんです。そういった勇気のあるある女性たちや、草の根の運動を支援するために、トレー ニングを実施する仕事をしていました。シエラレオネ、ギニア、リベリアや大湖地域(ルワンダ、ブルンジ、DRC、ウガンダ、タンザニア)などの国々です。 紛争という悪夢の中、或いはその後に、女性のNGOがさまざまな活動を行っていました。

シエラレオネ、ギニア、リベリアでは、国境を越えて女性たちが協力し合い、内戦を終わらせるように大統領とかけあったんですよ。リベリアでは、紛争 後の武装解除に女性が自ら乗り込んでいって交渉したり、ルワンダでは、女性たちが紛争孤児たちをフツ族・ツチ族にかかわらず一人ずつ引き取ろうという活動 をしていました。戦争未亡人達の職業訓練や、レイプによりHIVに感染した女性たちのリハビリを行っていたNGOもあります。そうした女性たちに関わっ て、彼女たちの勇気と、次世代のために平和を築こうという決意に感銘を受けましたね。

Q.逆に、国連に入って大変だったことはどのようなことでしょう。

国連は多種多様な人がいて面白いところなのですが、中での足の引っ張り合いが結構あるんですよね。まじめに仕事をしているだけでなかなか昇進できな いし、そういう人をたくさん見ています。また、上司が変わると、目をかける部下のラインも変わって、政治家の派閥争いのようなこともあります。できる人が できない同僚や部下から逆襲を受けて閑職に追いやられたりすることもありますし。そういう中で生き残り、昇進をしていくのはたいへんです。自分で幅広い人 脈を築くよう努力しなければいけません。

Q.国連で日本ができる貢献についてはどうお考えですか。

開発分野と平和構築分野の二つがありますね。まず開発の分野では、日本の開発援助が“人づくり”や長期的な視点を持っていることはよいと思います。とくにアフリカでは、中でもフランス語圏の国々では日本の貢献を期待する声をよく聞きます。

以前は開発と平和構築の間には住み分けがあったんですが、冷戦後は二つの分野の垣根が無くなってきています。例えば、ルワンダは、開発の模範例とま でされていたんですが、ドナー側に紛争予防に対する配慮なく、民族問題に取り組んでこなかった当時の政府を援助したことが、結果的にに紛争を導く結果に なってしまいました。社会的に疎外(social exclusion)されている民族の不満が蓄積し、何かのきっかけで紛争が起こると、これまでの投資が水の泡になる。紛争予防に配慮した開発 (conflict sensitive development)の必要性が高まっています。一方、持続的な平和を築くためには政治的解決だけではだめで経済社会開発が必要です。

そういう環境の中で、日本は世界でもまれに見る平和推進国家であり、開発と平和構築のリンケージの部分でやれることは大きいと思います。人間の安全 保障はまさにその部分だと思います。紛争予防するだけにとどまらず、「平和な社会を築くためには何が必要か」という考え方ですね。例えば、アメリカでは多 種多様な人々が共存しているわけですが、それは偶然ではなく、コンフリクト(広い意味で「考えの違いから来る衝突」の意)を平和的に解決する (Conflict Transformation)メカニズムが機能しているからです。そのメカニズムが何かを解明することが、紛争予防、そして平和構築につながると思いま す。このような新しい分野で日本が活躍してほしいと思います。また、日本は政治的に中立的な国であることもあって、日本に期待する国は多いです。

Q. これから国連を目指す人へのアドバイスをお願いします。

是非、いろいろな方に国連にチャレンジしてほしいと思います。インターンシップやJPOなどの機会を利用して国連機関で働く機会を作ってください。現在はウェブサイトなどでも国連の情報は得られますが、中にいる人とコンタクトをとることが非常に重要です。

一方、NGOの活躍はめざましく、国連でなければできないことはほとんどありません。グローバルな課題解決に携わることはNGOや二国間協力でもで きます。むしろ、緊急援助や紛争予防の分野で最前線で活躍しているのはNGOだといえるでしょう。学術界、NGO等で経験を積んで国連に入ることもよいと 思います。

また、開発途上国に行き、現地を自分の目で見て仕事その他の経験を積んでほしいですね。英語だけでなく第二外国語を勉強すること、いろいろな国の人とダイナミックにかかわっていける強さも必要です。

女性にとっては、国連は日本の職場と比べると本当に働きやすいところです。賃金や出張などでまったく男女に差はありませんし、子どもを預ける託児所 も国連内にあります。自分自身が密度を濃くして仕事をすれば、6時に帰っても誰も文句は言いません。子育てで仕事時間が限られるので、いかに有効に時間を 使うかが勝負になります。その分雑談をする余裕が減ったり、長期のプランニングが必要になったりすることはありますけれどね。


田瀬 和夫さん国際連合事務局人道調整部
人間の安全保障ユニット・課長

田瀬和夫(たせかずお):1967年生まれ。東大工学部卒、同経済学部中退、ニューヨーク大学法学院客員研究員。1991年度外務公務員I種試験合格、92 年外務省に入省し、国連政策課(92年~93年)、人権難民課(95年~97年)、国際報道課(97年~99年)、アフリカ二課(99年~2000年)、 国連行政課(2000年~2001年)、国連日本政府代表部一等書記官を歴任。2001年より2年間は、緒方貞子氏の補佐官として「人間の安全保障委員 会」事務局勤務。2004年9月より国際連合事務局・人道調整部・人間の安全保障ユニットに出向。2005年11月外務省を退職、同月より人間の安全保障 ユニット課長。外務省での専門語学は英語、河野洋平外務大臣、田中真紀子外務大臣等の通訳を務めた。

Q. もともとは理系でおられたと伺いましたが、なぜいま国連においでになるのでしょう。 

小 さいころはSF小説やらアトムなどの近未来漫画ばかり読んでいました。それで物理学に興味を持って東大で原子力工学を勉強するに至りました。一方、親戚に 第二次世界大戦で亡くなった人もあり、戦争は起こしてはならないという意識は小さい頃からありましたし、小六のときに社会科で出てきた「世界の国々」は衝 撃で、卒業のときの作文では国連で通訳をやりたいと書いたようです。そういう人や社会に対する興味が、大学を卒業する頃に冷戦が終わったこともあって再燃 し、職業としては科学者になるよりも自分に向いたことがある気がして、結局1年半かけて外交官試験を受けることにしたんです。

外務省では、幸運にも国連に関わる部署を多く経験しました。入省一年目で外務省でもハードな部署の一つ国連政策課に配属になっていわゆるPKO法の 成立に毎晩徹夜状態で関わり、ニューヨーク大学ロースクールで人権や国際法を学び、帰ってきたら人権難民課という課で人権委員会、従軍慰安婦、児童の商業 的性的搾取、国際組織犯罪などの重たい問題に深く関わりました。またそのあとのアフリカ二課では、国連開発計画(UNDP)や世界銀行と一緒にアフリカ開 発会議を担当しました。その後、さらに専門的な業務を担当する国連行政課というところに異動となり、国連のお金の話を担当しました。その頃には省内でも自 他ともに認める国連専門、マルチ担当みたいな感じになってましたね。連行政課では分担率交渉と人間の安全保障の両方を担当したんです。それがちょうど2000年の国連ミレニア ム・サミットに重なって、「人間の安全保障委員会」を事務総長と立ち上げることとなりました。議長の緒方貞子さんがよく私の上司のところにおいでになった のですが、たまたま二人になった時に緒方さんに人間の安全保障基金の審査はどのようにやっているのかと聞かれ、「難民支援の現場で配給する缶詰を目の前に 置いて審査しています」と答えました。

どういうことかというと、税金 を扱う身としては、缶詰の原価つまり数十円というとても小さい額と、これを現場に持っていったときに事業全体額として計上される2百万ドルとか10億円と かという非常に大きい額、それらが頭の中で感覚的に、完全に一貫してつながっていないとだめだと思うのです。また、現場にどんなものが行くのか知らずにお 金の計算だけしていてもいけない。当時日本からアフリカに出してた缶詰って「サバの味噌煮」とかですよ。ご存知でした? そういうことを考えながらやってますと申し上げたところ面白いと思われたようで、委員会が設立された際に、米国に来て手伝いなさいと言われました。それで 2001年から2年間、国連代表部の一等書記官として人間の安全保障委員会事務局のお手伝いをしました。 

2003 年にこの委員会がアナン元国連総長に提出した報告書で、国連でも人間の安全保障に本格的に取り組むべきだという勧告をし、その結果国連の中に人間の安全保 障ユニットが立ち上がりました。私はずっと関わってきたこともあってそこの初代課長として2004年に国連に出向し、そして出向期間中に自分のポストが公 募されたので応募し、採用されました。 

外務省の異動は約2年毎ですので出向期間終了後は日本に帰ってまったく違う仕事をする予定でしたが、退職して国連に残ることに決めたのは主に二つの理由によ るものです。一つ目は、せっかくここまで人間の安全保障が立ち上がってきたので、引き続き緒方さんのお手伝いをして、さらに大きく育てたいと思ったことで す。外交や国際協力に携わっている者として、緒方貞子の下で働けるというのはそうあることではありません。それで思い切って外務省を退職したのですが、後 悔はまったくしていません。これだけの政策概念の黎明に立ち会えることはなかなかありませんし、また、緒方先生にはずっとお元気でいて頂きたく、なんらか のお役に立てればと思っています。

田瀬和夫 Kazuo Taseもう一つは、大きな組織に しがみつくこと自体が自分を小さくするのではないかと思ったからです。常に新しいところで裸単騎でやっていけるだけの実力がほしい。そのためにどこかで殻 を破って外にでなければ、と思っていた自分にとっては格好の機会でした。もともと組織に対する帰属意識が薄いんです。人間の安全保障と緒方貞子さんという 大きな存在に引っ張られて、また自分にとって大きな機会になると思って国連に来ました。他方、決して外務省が嫌いで辞めたわけではないので、今でも外務省 の先輩や同僚たちとは連携を維持していますよ。みんな同じ時代をつくる仲間です。 . 現在のお仕事ではどのようなことをされているのですか。一 つ目は、日本が主要な拠出国である「人間の安全保障基金」の運営・管理です。事業申請の受付、審査、承認、拠出、評価、報告 など一連の作業をすべてうちのユニットでやっています。二つ目は人間の安全保障という概念の主流化で、加盟国との協議、資料の出版、普及のための行事の開 催などをやっています。そして、二つの仕事を有機的に結びつけるのも仕事です。基金の事業で成功例をたくさんつくり、概念そのものをはやらせる。そしてそ れでお金が集まれば活動を拡大できるでしょう。現時点ではユニットも小さく、いわば零細企業の社長さんのような感覚です。商品がいいことは分かっていて、 あとはこれをどう国際社会に売るか。アイディア次第で何でもできるので、そういう意味ではすごく面白い仕事です。 

ちょっ とだけ基金の宣伝をすると、この基金は人間に対する深刻かつ広範な脅威に対抗する幅広い分野に投資します。紛争後の開発への移行、人身取引、女性に対する 暴力、気候変動や自然災害対策などなど。ただ、ほかの財源と決定的に異なるのは、「問題に対する投資」ではなく、「人々に対する投資」である点です。まず 支援を必要とするコミュニティを特定する。そしてその人たちがどんな問題を抱えているか、それらがどう絡み合っているかを、自分の所属する機関の枠に囚わ れずに考え、事業の形にする。ボトムアップで考える。僕らはこれを統合(integration)と呼んでいます。供給側の都合で考える調整 (coordination)とは正反対の方向性を持つ考え方です。

Q. 外務省と国連という組織の違いはありますか?

方とも大きな官僚機構で、巨大なタンカーみたいなものです。操作するにあたってのボタンの押し方や舵の取り方は相当に異なりますが、それぞれの「乗り方」が分かればちゃんと動いてちゃんと止まると思っています。 

具 体的な話をすると、日本の官僚組織は基本的に一枚岩です。いかなる決定も、外務省だけではなく関係省庁や官邸とも相談の上でなされます。そのための調整は 徹夜ででも必ずやる。いったん立場が決まれば対外的に強固ですが、逆に小回りは利かない。それにかなり重要なことまでボトムアップで決まる傾向がありま す。逆に国連は分権です。各部署の裁量の幅は大きいと言えますが、ばらばらとも言えます。そしてかなりトップダウンのリーダーシップが大きいとも思いま す。どちらも利点と欠点がある。 

また、日本政府は強い官僚組 織ですが、 職員のライフワークバランスについては相当考え直した方がいい。考え直さなければ必ず破綻します。国連は個人の生活はよいが、組織としてあまりにも分裂が 激しい。そういう意味では同じようなタンカーだけれど、動くメカニズムは全然違います。でもいずれも人間がつくった組織ですからね。長い目で見ればどのよ うな変化もあり得ると思います。 

Q. 国連で働く魅力は? 

この質問、これまでこのインタビューで聞かれた多くの人たちがほぼ同じ感覚のことをお答えになっていると思うのですが、 なかなか表現するのが難しい。「自分と全然違うと思っていた人たちが同じ目的のためにがんばってる感」とでもいいましょうか。体験しないとなかなか共感す るのは難しいかもしれません。私の部署でもイラン、ウガンダ、イギリス、ドイツ、ペルー、フィリピンと、さまざまな国籍の人が人間の安全保障を主流化する ためにがんばっています。言葉も人種も習慣も違うのに、国連憲章の下で共通の目的に向かって一緒にできんじゃん、という感覚。うまく動くと痛快としか言い ようがありません。大げさに言うと、人類捨てたもんじゃないな、ぐらいの感動が日々あります。

Q. 一番思い出に残っている仕事はなんですか?

外務省時代を通しどの仕事も大切ですが、自分の仕事が現場で生きているのを見た時は嬉しいですね。例えばコロンビアに出張したことがあって(フィールド・エッセイ参照:http://unforum.org/field_essays/8.html)、 自分の机を通り過ぎた事業が現場で多くの人たちの命を救っている、そのつながりを明確に感じました。また、ホンジュラスでは、家庭内暴力の被害者だった女 性が基金のマイクロクレジットで始めた屋台がうまくいって、にこにこ笑っていました。大きく言えば、人間の安全保障の仕事は全部、忘れられないと思いま す。 

Q. たいへんだったこと、つらかったことはなんでしょうか

人 間の安全保障は日本のイニシアティブとして見られている面もあります。自分でもそれは分かっているし国連も理解はしているのですが、国連職員としては日本 から独立した意思決定を求められます。特に他の職員は「日本のためにやっているのではなく、私は世界のためにやっているのだ」という意識がありますから ね。それをどう運営するかは課題です。でも逆に言うと、これは政策をもっと大きくするチャンスでもあるんですよ。そういう意味では全部たいへんですが、つ らくはないです。あと、外務省で睡眠時間が短かったのが単純につらかったです(笑)。

Q. 国連で働く上で心がけていることはありますか。

人 の話をよく聞くことかな。 言葉だけじゃなくてその人の気持ちに添う。たとえばいま私の下に国籍の違う人が6人7人働いていて、その人たちの日常というのは私の掛け声で変わるわけで す。多分みんな、自分が何を考えているのか理解して共感して欲しい。それに日本人同士は「いわずもがな」に頼れますが、国連ではそれは働かない。だから自 分が話す時もここまで必要か、と思うところまで敢えて言葉で表現し、細かいニュアンスの違いまで言い分ける。語学力ってそういうことだと思うんです。相手 が言いたい細かい機微まで聞き分けようとするか、表現し分けようと思うか。その力は言葉の中身への理解と人の気持ちへの理解を伴います。 

Q. 今後どのような分野でキャリアアップをお考えですか。

乗 りかかった船ですから、人間の安全保障はしばらく責任を持ってやります。ただ、これまでは緒方貞子という知的巨人がつくった御輿(みこし)を自分で一生懸 命担いできている状態です。これからは、自分がいなくても御輿が落っこちないように、仲間、そして将来の担ぎ手を育てるというのが仕事でしょうね。もっと 国連の中でみんなで「わっしょい、わっしょい」という感じがほしい。 

そ の次については明確に見えているわけではありません。私はなんでもいいから国連の中でポストを見つけて上がっていく、という論理ではないと思うんです。先 ほども言ったように、どこでもきちんと実績をつくれる人材でありたいし、国連という組織にもこだわりはありません。多分、その時が来たらやらなければなら ない仕事が向こうから来るのではないかと思っています。 

Q. 今までやってこられた支えみたいなものはありますか。

偉大な先輩方、緒方さんやアマルティア・セン教授、ブラヒミ大使、リザ官房長、こういった方たちはもう相当高齢ですが、国籍は違うのに私のことを息 子みたいに可愛がってくれます。こういう方たちに、こいつのやっていることは役に立つと思わせたいので僕もがんばる。そして先輩から受けた恩は絶対次の世 代につないでいかなきゃならない。その意味では国連フォーラムの仲間は自分を支えてきてくれた大切な人たちです。 

. 週末は何をされてますか?

サー フィンですかね。夏の週末はビーチにいるようにしてます。意外ですがニューヨーク近郊の大西洋岸にはオーストラリア並にきれいなところがあるんですよ。も う一つは魚釣り。車でモントークというところまで行くとめちゃめちゃ魚影が濃い。イカ、ヒラメ、スズキなどなんでも釣れます。あとはこのインタビュー、 「国連職員NOW!」の編集作業をやっていることが多いです(笑)。

Q. 国連を目指す方々にメッセージをお願いします。

こ のインタビューシリーズで過去に「国連を目指す人にメッセージを」と質問したら、「国連を目指すというのは間違い。結果的に国連で働いているというのが正 解。」と叱られたことが何度かあります。それ以降、「グローバルイシューに取り組もうと思っている人にメッセージをお願いします」と聞くようになりまし た。 

でも、あえて国連ということなら、まずは国連憲章の精神 に共感できるかどうかが最も大切かと思います。国連憲章の前文、読んだことありますか? 基本的には世界大戦の戦争の惨禍を繰り返さない、将来の世代にきちんとした世界を引き継ぐというところからこの機関はあるはずなんです。これが国連を目指 す動機になっているかどうか。単に職業としての国連職員を目指すことにあまり意味はありません。まず自分の使命は何かをよく考えてみることが大切ではない かと思います。 

技術的には「視野を広く」ということでしょうか。国連には残念ながら「専門バカ」もたくさんいますが、そうなるとほと んど役に立ちません。特に私の仕事の人間の安全保障は、人間を取り巻くいろんなことがどうつながっているかを見ていますから、ある分野の専門知識は他の分 野と相互作用することで初めて大きな付加価値を生みます。その意味で、早くから興味を絞るのではなく、幅のある知識と経験を身につけることが重要だと思い ます。僕は工学と経済学と法学を学びましたが、とても役に立ってます。 

も 一つ言えば、「切り拓く」ということでしょうか。人がつくった土俵で遊んでいても国際世論は絶対に引っ張れません。私は人間の安全保障の専門家と見なされ ていますが、もともとそんな専門はありませんでした。なければつくる(笑)。その意味ではそこにある何かに気づいて名前をつけるだけでもいいんです。そこ に前から存在する論理が、名前をつけた瞬間にふっと浮き上がってみんなに見えるようになり、支持され、最終的にはルールになる。「人権」なんてまさしくそ ういう例でしょう。こういう「規範」のメカニズムをちゃんと分かっていて意図的、確信犯的、徹底的にやれるかどうか。これが日本には一番不足している力か もしれません。自分でルールをつくる。なければ自分で道筋、論理を見出して、命名して、説得して、支持させる。そういう気迫があればなんでもできると思い ます。

川端 清隆さん
国連政治局 安全保障理事会部

川端 清隆(かわばたきよたか):大阪府生まれ。1979年、米国ミシガン州ホープ大学卒。コロンビア大学大学院政治学部修士。時事通信記者を経て、1988年より国連本部政治局政務官。安保理改組、アフガン和平やイラク問題の処理に従事した後、現在は安保理を担当。著書に『アフガニスタン―国連和平活動と地域紛争』、共著に『PKO新時代』。

Q.どのような経緯で国連で働くようになったのですか。

もともと国際的な問題に関心が強かったので、マスコミで仕事に就ければという希望を持っていました。米国のコロンビア大学大学院政治学部に在学中の時には、現在の国連本部政治局(Department of Political Affairs: DPA)の前身である政治安保理局(Department of Security Council and Political Affairs)でインターンをしました。大学院終了後は、一旦日本に帰国し、6年間時事通信社の記者として働きました。その頃はアパルトヘイト、北朝鮮の中距離ミサイル問題や日米貿易摩擦などの問題を担当していて、仕事はとても楽しかったです。在職中に国連競争試験が行われるというので受験したら合格したわけです。それ以来、政治局で政務官(Political Affairs Officer)として勤務しています。Q.ジャーナリストを経験された後の国連の印象はどんなものでしたか。

まず、はじめに認識させられたのは、当たり前なのですが、国連は主権国家の連合であるということでした。私が国連に入ったのがまだ冷戦の終わらない1988年だったということもあるのでしょうが、例えばある議題に関して国連の見解を準備するように言われ、上司に提出しました。記者の経験もあって、出来にはけっこう自信があったのですが、「それは『西』側の見解だ。『東』側と『西』側の両方の見解を述べるように」と言われたことがありました。また、これは国連に入った後で知ったことなのですが、私が最初に所属した政治安保理局は、ソ連出身者しか局長になれないという部署でした。当時は冷戦の最中で、国連内も部局によって「東」と「西」の「縄張り」に分けられるという状態だったのです。

ただ、ジャーナリストの経験に関して言えば、政務官の仕事は特に限られた時間の中で多くの情報を処理・分析することを求められるので、ジャーナリストの時に培った優先事項を見分ける能力は、今の仕事にとても役に立っていると思います。

Q.政務官としてどのような分野、または地域を担当されてきたのですか?

1994年は、国連ルワンダ支援団(UNAMIR)、1995年から7年間はアフガニスタンを、2002年から2年間はイラクを担当しました。1995年には、総会の下部組織である、安全保障理事会改革のための特別作業部会(Special Working Group on Security Council reform)の事務局を担当したこともあります。現在は、政務局安全保障理事会部(Security Council Affairs Division)に所属しています。安全保障理事会部は安保理の運営を支える部署ですが、安保理で行われる議論を日々まとめ事務総長室に送ることなど、安保理と事務総長室間の連携を円滑にすることも重要な仕事の一つです。

Q.今までの仕事で苦労した点はどんなところですか。ダェノサイドを許した国連の大失敗はもちろんですが、特に苦労したのは、90年代後半にアフガニスタンの内戦が激化していたのにもかかわらず、国際社会が周辺国の干渉に正面から向き合うことを避けていたことです。国連は内戦を放置した場合の潜在的危険性を何度も指摘しましたが、「アフガニスタンの将来はアフガン人に委ねるべきだ」という体のいい言い訳ばかりが返ってきました。周辺国や大国の利益が複雑に交差する中、国連は特使を送ったり、関係者間の交渉をお膳立てしたり、安保理の決議や政治宣言の採択などを通じて、タリバンと周辺国自身による政治的解決を模索するのに多大な労力を払いました。残念ながら、そうした和平努力は最後の最後で実を結ばれませんでした。その後国連によって繰り返し発せられた警告にも十分な注意が払われることはなく、国際社会の関心がやっとアフガニスタンに向くのは世界が9.11に直面した後でした。9.11後の米国によるアフガニスタン空爆直後には、タリバンが特別のルートをたどって「米国と交渉したい」と私に頼ってきたことがありましたが、残念ながらすでに手遅れでした。内戦中には「勝っている時こそ交渉に応じるべきだ。負けたら誰も言うことを聞いてくれなくなる」と、何度も説得したものの耳を貸さなかったのは彼らのほうでしたが、あの時にもっと何かできていればという思いは残ります。また、90年代の終わりにはタリバンの原理主義が蔓延していく兆候が顕著になっていたのですが、当時その深刻さをわれわれがどこまで理解していたかというと疑問が残ります。今から思えば、2001年の春ごろにはタリバンはすでにアルカイダに乗っ取られていたのだと思います。

Q.イラクも担当されましたが。

イラクの担当も大変でした。担当を始めたのは、まさに米国がイラク戦争を始めるのは時間の問題という時期でした。イラク戦争を巡っては、安保理内でも意見が分かれており、米国とフランスなどの対立する理事国の立場を踏まえた上で、戦争回避の可能性を模索するために、事務総長にどのタイミングで何を言ってもらうかに非常に神経を使いました。ご存知の通り、国連は結局イラク戦争を防げませんでした。今のイラクの状況を考えても、自分の仕事は役立ったのかと落ち込んだ時期もあります。

Q.逆に今までの仕事の中で、面白かった仕事は何ですか?

そんな仕事の心の支えになってきたのは、現場とのコンタクトでした。アフガニスタンへ出張に行く際にはいつもタリバンの大臣レベルの高官たち、といっても30歳前後の青年たちですが、彼らを含め実に多くのアフガン人と会合を持ちました。そのうちの何人かとは随分仲良くなったのですが、ある時、タリバンの高官の一人から、「実は教養のある女性と結婚したいんだ」と打ち明けられたことがありました。女性の権利を否定していると思われていたタリバンですが、彼らと付き合う中で本音と建前を使い分ける面を垣間見ることは多々ありました。バーミヤンの仏像の破壊を巡っても、実はタリバン内でも意見が分かれていたと言われています。

Q.平和活動における国連の課題は何だと思われますか?

90年代、国連はカンボジア、コソボ、東ティモールなどにおけるPKOで一定の成果を挙げた一方で、ソマリア、ルワンダ、ボスニア(スレブレニツァ)では、虐殺を許す、またそうでなくとも多数の死者を出す大失敗をしています。それから10年以上が経ち、ダルフールやコンゴ民主共和国(DRC)などでは再び平和執行(peace enforcement)の側面を含む活動を求める声が強まっており、イラクとアフガニスタンには安保理決議には基づいているものの、PKOの枠組みを超えた多国籍軍が展開しています。国連の能力を超えた平和執行には手をださないというのが教訓の一つではありましたが、国連以外の手段がない場合にただ傍観する訳にもいかず、また、安保理からの圧力もあり、この原則を貫くべきかが再び問われています。ダルフールやDRCに限らず、この問題に対するはっきりとした答えを国連や、日本を含めた加盟国はだせていませんが、現実の紛争はいつまでも待っていてはくれません。コフィ・アナン事務総長退任後の新しい事務総長がどれだけ国連の立場を主張できるかにもかかってくると思います。

Q.国連の平和活動において日本ができる貢献についてはどうお考えですか。国連のPKOや平和活動ミッションで働く日本人は、まだまだ少ないのが現状です。物資の提供だけでなく、もっと文民を含めた人的貢献に力を入れてもいいのではないでしょうか。
Q.これから国連を目指す人へのアドバイスをお願いします。

 早いうちから自分の進みたい分野を見定めて、それに合わせて大学や職業を選ぶようこころがけてください。



ハジアリッチ・秀子さん

国連開発計画(UNDP)開発政策局貧困グループ・ミレニアム開発目標(MDG)支援チーム
UNDG/MDG政策ネットワークマネージャー

ハ ジアリッチ秀子(はじありっち・ひでこ):1992年同志社大学卒業。2000年フィリピン大学にて国際学修士号取得。米国コンサルタント会社勤務などを 経て、JPOとしてUNDPボスニア事務所に赴任。その後、UNDPイラク事務所の勤務を経て、2007年9月より現職。

Q.国連で働くようになった経緯を教えてください。

家 庭の事情からフィリピンに住むことになり、そこで大学院に進学しました。フィリピンでは日常生活の中で経済・社会的な格差を目の当たりにし、次第に開発の 仕事に興味を持つようになります。国連に入る前は米国のコンサルティング会社で働いていたのですが、フィールドで開発の仕事に関わりたいと思いJPOに応 募したところ採用され、国連開発計画(UNDP)のボスニア事務所にガバナンス・プログラム担当として4年半赴任しました。

Q.JPOで赴任されたボスニアではどのようなお仕事をされたのですか?

当 時ボスニアでは、緊急援助から開発へと国際支援の段階が移行していた時期だったので、様々な仕事に携わることができとてもおもしろかったです。また、上司 も同僚もユーモアのセンスがあり、それでいてとても有能な人達でしたから、周りの人材にも恵まれました。ストレスがたまってきたときほど冗談が飛び交っ て、笑いながらみんなで乗りきっていたのをよく覚えています。  

ボ スニアでの最初の仕事は、国連機関間の合同計画の立ち上げでした。最初はジェンダー・チームの連携を任され、そこでまず始めたのが、ボスニア政府に対する 男女平等法の草案作成支援とアドボカシー活動でした。草案の採択後にはその施行のための国連合同プログラムを作成しました。例えば、国連人権高等弁務事務 所(OHCHR)では判事の研修を行い、UNDPではジェンダーに取り組む組織開発を担当するというように、各機関で必要な支援を分担しました。 

ま た、国連機関間の合同計画の一つで、人権の促進に基づいた地域開発計画も担当しました。これは(当時)UNDPとOHCHRの初めての合同計画でしたが、 OHCHRは法律の観点から、UNDPは政策の観点から物事を見ていましたので、同じ国連といえども随分と機関間で手法が違うことを実感すると同時に、そ うした違いのおかげで計画がより充実し包括的なものになりました。 

ま た、若者人材育成のためワークショップや記者会見などいろいろな取り組みがされていましたが、イベントの開催ばかりが目立ち、どこか若者がイメージづくり のために使われているだけのような気がしていました。そこで政策レベルの議論を通して、政治の舞台にまでよい影響がでるように、もっと組織立って若者の政 治参加を促進するため、ボスニアのサラエボ大学の中に多民族構成のシンクタンクを立ち上げました。日本政府、UNDP、ソロス財団、ボスニア政府、 サラエボ大学の協力を得て事業を進めました。  

このシンクタンクの初代代表とは、一緒にコンセプトを練りに練り、資金調達に歩き回りました。実は先日、このシンク タンクの初代代表がボスニア国連大使に任命され、とても嬉しかったです。彼は私より数歳も若いんですよ。組織化されたシステムからボスニアの若者の中に リーダーシップが生まれ、それが実際にボスニアの外交や政治に活かされていることを知り、つくづく関わってよかったと感じました。 

ボスニアでの任務終了後はイラクへ赴任し、地雷と農業・貧困削減のプログラムに取り組みました。 

Q.イラクではどのようなお仕事をされたのですか? 

地 雷対策を担うイラク政府の担当部局の能力強化のため、イラク人の人材育成を支援する仕事を任されました。政府の要望を基にワークショップを企画し、戦略計 画なども担当し、非常にやりがいのある仕事でした。この時の上司は、長年イラク問題に関わってきた人でしたので、毎日とても勉強になりました。イラク北部 では世界保健機関(WHO)との合同計画を立ち上げ、イラク政府やNGOと相談しながら計画を練り、日本政府の支援を得て実施しました。 

ま た国連児童基金(UNICEF)と一緒に地雷被害者の対策計画を練ったりもしました。イラク南部のバスラという地域で、地雷のための人道NGOの立ち上げ 支援をしたのですが、ボス二アと同じ枠組みをつかってもうまく機能するまでには時間がかかりました。地雷というと撤去作業ばかりに視点が行きがちですが、 イラクのように資源(人・金・時間)が非常に限られていたケースでは、医療施設や学校からというように、優先順位を決めて取り組むことが大切でした。 

当時のイラクでは政府関係者が誘拐されることが多々あり、実際カウンターパートの政府関係者が誘拐されることもあって、会議や研修で会った後の別れ際に「また会えるとよいね」なんて言われ、本当に会えなくなるかもしれないと思うととてもつらかったです。 

Q.ニューヨークの本部では現在どのようなお仕事をされていらっしゃるのですか? 

UNDPのMDG支援チームの主な役割のひとつは、各国連機関が提供する政策を調整し、それらの政策支援に一貫性を持たせ、国連システムが一体と なってMDGsに関わる国連の地域事務所を支援できる体制を整えることです。このためには、国連開発業務調整事務所(The UN Development Operations Coordination Office: UNDOCO)  の助言と支援に基づいて仕事を進めていく必要があります。「One UN」と言いながら、各機関が一緒になって地域事務所を支援していくのはなかなか難しいことです。誰もが国連機関間の調整は必要だと言いますが、自分が実 際調整「される」のは嫌なのです。 

調 整の基本は、いかに相手にオーナーシップを持ってもらえるよう接し、神輿を担いでもらうかにあります。特に国連機関間のリーダーシップは、相手に「この事 業に関わることで自分たちの仕事の効果がもっと期待できる」とか、「自分たちの仕事がもっと多くの人に理解される」など、利点を見てもらえないと失敗で す。また、みんなに参加してもらえるように仕向けて行く必要があるので、時間もかかりますが、とても面白い仕事ですよ。自分よりもシニアレベルの他機関の 人々と一緒に仕事をする機会が多く、いろいろと学ぶことが多いです。  

それから政策策定支援となると、現場で一番嫌われるのが机上の理論、学術的すぎることを言う人です。どんなに洗練された素晴らしい政策のアドバイス でも、実際に現場の背景を理解していないと役に立ちません。ですから私たちの仕事では、その国の歴史や根底にある問題点を噛み砕き、それを政策提言に反映 させることが重要になってきます。おそらく私が現在のポストに就けたのも、ボスニアとイラクで現場を経験し、政策策定支援の背景を多少現実的に理解できて いたからかもしれません。 

現在は、政策ネットワークのこの先2年間の運営計画の作成に取り組んでいます。この案は採択されつつありますが、採択されれば、各国連機関に対して とりわけ政策提言にかかわる人材を確実に配置するよう要求していけます。いまでは2年でなく、3年間の運営計画にすればよかったと後悔しています。 

また、国連機関の中では私はまだまだ若年ですので、どうしたら各機関の上層部に実際に行動を起こしてもらえるような依頼の仕方や提案をしていけるか と常に考えます。一人先走りしては誰もついてきませんから、ほかの人達のアイデアを尊重し、オーナーシップを感じてもらいながら、同時に実際に参加を促し て仕事を進めていくことが重要です。他の国連機関の人々からも信頼され、正直に話ができる関係づくりに時間をかけることも必要です。 

Q.現場と本部のお仕事の違いはどんなところでしょうか?

現 場では、受益者の方たちや、政府関係者と連絡が取りやすいのが魅力です。一方、現在私が関わっている本部での仕事は、各関連機関との調整にも時間がかかり ますし、成果がなかなか目に見えないのが難しいところです。特に私の取り組んでいるMDGsは一定の期限までの目標達成を目指しているので、現場での事業 と政策レベルの支援の微妙なバランスが必要です。小さい事業ばかりをやっていても国全体を動かすような成果にはなかなか結びつかないので、どのレベルで、 どのくらいの規模の支援をしていくのかしっかりと考える必要があります。 

ま た私の仕事の対象は後発開発途上国なので自然とアフリカ諸国が多くなりますが、同じアフリカでも、ひとつの成功例が他の国でうまくいくとは限りません。各 国の背景をよく理解し、ミクロとマクロの両手法のバランスと具体的な実行方法を考え、最終的にどのようにしたら国全体の取り組みに高めることができるかを 常に考えなければいけないところが、現在の本部での仕事の難しいところです。 

Q.今後挑戦していきたいことは何ですか? 

今 携わっているUNDG/MDG政策ネットワークは、これまでにはなかった調整の取り組みなので、これをあと数年でしっかりと立ち上げてから、次のステップ に行きたいと思っています。将来は他の国連機関でも働いてみたいですし、最終的には現場志向なので、いつかフィールドにも戻りたいですね。 

Q.今までのお仕事の中で、楽しかったことや印象に残ったことはなんですか? 

一 番印象に残っているのは、ボスニアやイラクでの現場経験でしょうか。イラクではWHOと共同で犠牲者支援事業を立ち上げました。NGOや政府関係者とニー ズ評価などを一緒に考える中で、地元の人と意見を出し合い、一緒になって一つのものをつくっていることが日々の大きなやりがいでした。またボスニアでは、 クロアチア系、セルビア系、ボスニア系の民族が一緒になって地元の観光を促進する事業を行いました。この観光促進プロジェクトには、もともとあまり協力的 でない地元の政治家も、民族を越えた協力をしなければ観光市場を促進することは難しいということを理解してくれたのです。こうした社会では観光はとても良 い復興の切り口だと思いました。実際、多くの地元のスタッフがこの事業をとても喜んで応援してくれたのを覚えています。 

Q.MDGsについて日本が貢献できることはなんだと思われますか?

私 は「日本国内でのアドボカシ―」だと思っています。MDGsは期限付きの計画なので、みんなで切迫感を持って支援をしていく必要があります。日本は、昨年 度第4回アフリカ開発会議(TICAD IV)のホスト国を務め、成功に終わりましたが、この波に乗って、日本の市民一人ひとりが「世界には基本的なニーズを満たすことができない人がどれだけい るか」を理解し、自分達の税金がそれらの人達に貢献していることをもっともっと知ってほしいですね。  

昨 年から続く世界的な不況に伴い、石油価格の高騰や食糧危機などMDGs達成に向けた問題点はいろいろとあります。それでもみんなが意識してMDGsに取り 組めば、2015年までには目標を達成できると思っています。またこれからは、MDGs終了後にどのようにフォローアップをしていくのかも考えていく必要 があります。 

Q. 世界の問題に関わろうと思う日本人にエールをお願いします。

朝元気に仕事に出かけて行っても、夕方無事に家に帰ってこられるかわからないイラクのような国にいる人たちにとっては、国連の存在は非常に小さいと 思います。国連のできることはまだまだ限られている、といった謙虚な認識に立った上で仕事をしていくべきということです。紛争後あるいは紛争のまっただ中 にある国の中では、国連に対して怒りを持ち、失望している人たちさえもいるという状況をしっかりと理解し、受け入れる必要があります。実際、現場にいくと 国連の存在は本当に小さいと感じることが多々あります。各国連機関は、もはや個別に動く余裕もあまりなく、こういった時代こそ、もっとしっかりと調整され た政策提言への支援の必要があると思います。 

今後国際協力の分野で活躍を目指す若い方々には、現場の中で、地元の人が直面している問題の中に飛び込み、自分には何をできるのかを常に考えながら 仕事をするのが良いスタートだと思います。日本人は概して思いやりがあり、現地の語学も進んで学び、地元の人と同じ目線で意思疎通しようと努力しますか ら、地元の人にもたいへん好かれます。この現場感覚をもっと利用して、まずはフィールドでがんばってみてください。現場では本部では任されないような責任 のある仕事も入ってきますし、それが後々キャリアアップにもつながると思います。国連に対する問題意識を持つことも大切です。 

また国連は短期雇用の世界ですから仕事の安定性はありません。しかし安定感がありすぎると組織の中に埋もれてしまい、個人としての底力がなくなってしまうので、緊張感を持ちつつも自分自身に対して常にチャレンジしていくには、国連はとても良い職場だと思います。 

Q.ご家庭とお仕事のバランスはどのようにとっていらっしゃるのですか? 

JPO で赴任したサラエボで夫と出会って結婚しました。典型的なボスニア人で冗談ばかり飛ばしているので、とても4年間にわたるボス二ア戦争を経験したとは思え ないほど陰りのない人です。昨年初めての子どもを出産し、いま 1 才になりますが、子育ては仕事とは違うエネルギーを使うので、仕事から疲れて帰宅しても家で子どもの世話をすることはまったく苦にはなりません。子どもが できたことでオンとオフがはっきりするので、かえって仕事と家庭の両立がうまく行っています。 



「小型武器問題-国連行動計画の履行と日本の取組み」
益子 崇 国連軍縮部 プロジェクト調整官
        大村 周太郎(コメンテーター)国連日本政府代表部 参事官    

          2007年7月12日開催 於:ニューヨーク日本政府国連代表部会議室
            国連邦人職員会/国連日本政府代表部/国連フォーラム共催 合同勉強会 

 はじめに
■1■ 小型武器とは何か    ■2■ 国連小型武器行動計画について
■3■ 国連小型武器行動計画履行検討会議について
■4■ 小型武器に関する様々な取組  日本政府の立場から【大村さんからのコメント】
 質疑応答

■ はじめに

は じめに、国連事務局軍縮部について説明したい。2007年初頭には潘基文新事務総長の国連改革の一環として、軍縮局が政務局に吸収合併される、という案も あったが、軍縮局(Department for Diisarmament Affairs)を軍縮部(Office for Disarmament Affairs)とすることで決着がついた。軍縮部の長はレベルとしては事務次長のままだが、肩書きとしては「軍縮担当上級代表(High Representative for Disarmament Affairs)」となった。昨日、ブラジルのセルジオ・ドゥアルテ大使が上級代表として着任したばかり。ドゥアルテ大使はブラジルの外交官として40数 年のキャリアを持ち、2005年の核兵器不拡散条約(NPT)運用検討会議の議長も務め、軍縮問題への造詣も深いと聞いている。

事 務総長報告(A/61/749)では「軍縮問題を活性化させるために、最高レベルによる確固とした指導力が求められている」と述べられている。包括的核実 験禁止条約(CTBT)の発効もなかなか進まず、2005年の核兵器不拡散条約運用検討会議は失敗に終わり、2006年の国連小型武器行動計画履行検討会 議(以下、再検討会議)も成果文書の採択に至らなかった。こうした状況の中で軍縮局が軍縮部に変わり、軍縮担当上級代表という新たな肩書きが作られたこと については、上記の事務総長報告にもあるように、「柔軟性、敏捷性、事務総長への近接性」を最大限に発揮できる組織とすることで、事務総長直轄で軍縮問題 を扱っていくという事務総長の意思の表れだと理解している。

軍縮部には、小型武器問題を扱う通常兵器課 (Branch)のほかに、核兵器及び生物化学兵器を扱う大量破壊兵器課、ジュネーブ軍縮会議を担当するジュネーブ支部、ペルー共和国のリマ・トーゴ共和 国のロメとネパールのカトマンドゥ(NYから移転協議中)にある三つの地域センター等がある。職員は総勢80名ほどで、以前は局であったことを考えると、 規模は非常に小さい。そのうちニューヨークに勤務しているのは約60名で、専門職と一般職がおよそ半々である。私が所属している通常兵器課の中で小型武器 問題に携わっているのは私を含めて4名である。

2002年にリマの地域センターが中心になって小型武器を破壊 するイベントが開催され、私もニューヨークから参加した。ペルーでのゲリラ活動や犯罪に使われていた武器が押収されていたのだが、警察の武器庫の棚に収ま りきらず、床に血のついた銃が放置されて転がっているという状況だった。武器を破壊する前に一挺一挺について型式、製造番号等の記録を取り、「完全に、不 可逆に、検証可能に」という国連が定めた武器破壊の原則に従い、3日間で銃を検査していった。検査した銃は全部で2200挺に上ったが、中には弾薬がその まま残っていたものもあった。武器を取りまとめた後は警察の護衛つきで溶鉱炉に運び、まとめて約1500度の高温で溶かす。溶かした鉄は鳩の形をした鋳型 に流し込み、平和の象徴として公園に展示されているという。こういった形で、国連小型武器行動計画(以下、行動計画)に則った破壊活動が様々なところで行 われている。

行動計画には二つの大枠がある。一つは国際的な規範作り、もう一つは、行動計画をどのような仕組 みで実施していくか、関係者・機関をどのように調整していくか等、履行していく上での具体的施策である。この大枠に基づき、様々な観点から小型武器問題へ の対応が進められている。

■1■ 小型武器とは何か

小 型武器とは何か、という定義は、行動計画においては明確には示されていない。2005年に採択された「国連非合法小型武器の特定と追跡に関する国際文書」 では、small armsは個人で携行・使用できる兵器とされており、カラシニコフ、ライフル、自動ピストル、リボルバー、サブマシンガン等が含まれる。一方light weaponsは2~3人がチームとなって携行・使用する兵器とされ、マシンガン、ポータブルミサイルランチャー(肩撃ち式ミサイル)、100ミリ以下の 迫撃砲、グレネードランチャー(手榴弾発射装置)等がここに分類される。日本語では、このsmall armsとlight weaponsを併せて小型武器と総称している。弾薬、爆発物、地雷は小型武器には含まれない。

国 連では統計はとっておらずあくまでも参考値ではあるが、小型武器の蔓延を示す数字として以下のようなものがある。合法・非合法を問わず世界中に蔓延してい る小型武器の数は7億5千万から10億。紛争に関連して主に小型武器によって命を落とす人は年間30万人。紛争以外の状況で小型武器によって命を落とす人 は年間20万人。小型武器の製造数は年間800万。小型武器の貿易額は年間40億ドル。

小型武器が問題となる のは、多くの人数を簡単に殺傷することができるからである。アナン前事務総長は、小型武器は事実上の大量破壊兵器であると述べた。非合法な小型武器が特に 蔓延しているのは、その環境から、アフガニスタン等の紛争下の状況と、南米等暴力や犯罪に関連する状況の二つに大別できる。

■2■ 国連小型武器行動計画について

2001 年の国連小型武器会議にて採択された行動計画(正式名称は「小型武器非合法取引防止に向けた行動計画」)には法的拘束力がなく、あくまでも政治文書として の位置づけとなっている。この行動計画を法的に拘束力のあるものとすべきとの議論もあったが、軍縮の世界では作業部会における意思決定は全会一致でなけれ ばならないので(コンセンサス・ルール)、この行動計画も最終的には政治文書として落ち着いた。この行動計画における主な行動主体は加盟国 (states)であり、国家が一義的な責任を負うことになっているが、このほか地域機関、国際機関、市民社会もそれぞれ取組を進めることが推奨されてい る。

行動計画について、キーワードを追いながら内容を見ていきたい。前文に続き、第二部では、国家レベル、地 域レベル、世界レベルでそれぞれ取るべき施策について順に述べられている。主なものを挙げると国家レベルでは、小型武器の非合法な取引について刑事罰を適 用すること、外務省・内務省・防衛省・法務省等国内の関係機関を調整する仕組みを作ること、小型武器問題に関する連絡窓口を設けること、小型武器の製造・ 輸出入・合法取引を免許制にすること、非合法取引の仲介者に対する罰則を定めること、余剰武器を適切に管理すること、国民に対する啓発活動を行うこと、紛 争下で子ども兵士として働かされる子どもを保護すること等が求められている。また、世界レベルでは、国連安全保障理事会が発動する武器禁輸措置と連携する こと、非合法な小型武器を追跡する仕組みを強化すること等としている。

2001年に行動計画が採択されてから 2006年に再検討会議が開催されるまでにどのような成果があったかということについては、2003年と2005年の中間会合で各国の取組が報告されている。2003年の第一回中間会合は日本の猪口軍縮大使が議長を務めた。これまでに145カ国が小型武器問題に関する連絡窓口を設け、80カ国以上が国内に 調整機関を設置し、141カ国が行動計画に関する報告書を提出した等の成果が報告されている。ある統計によると、1990年から2007年までの17年間 に破壊された小型武器は830万挺とのこと。他方で、小型武器の製造数が年間800万挺であることを考えると、17年かけて廃棄してきたものが毎年新たに 作り出されていることになる。

■3■ 国連小型武器行動計画履行検討会議について

2006 年6月末から7月にかけて、再検討会議が開催された。この会議でどのような成果があり、どのような点が不調に終わったかを考えてみたい。ある国のロビー団 体はこの再検討会議に対する反対活動を繰り広げ、関係者に何万通もの抗議文書を手紙、ファックス、電子メール等で送りつけた。国連で議論されるのはあくまでも非合法に取引される小型武器を取り締まるための枠組であり、加盟国の国内法に則って合法的に市民が武器を所持することについては国連の管轄外であるため関与しない。そのことをこれまで何度もはっきりと説明してきているが、こうしたロビー団体はそれを承知の上であえて反対活動を続けている。

再 検討会議で参加国の意見が分かれた項目については以下のようなものがある。まず、行動計画をいかにフォローアップするかという仕組みについては、国連で小 型武器について話し合う必要はない、と強硬に主張した国があり、そのことが再検討会議が不調に終わった原因となった。その他は、弾薬や携帯式地対空ミサイ ル(Man-portable air-defense systems, MANPADS)を小型武器の範疇に入れるか入れないか、市民が小型武器を所持することについて言及するかしないか、反政府ゲリラは行動計画の行動主体と なりうるかどうか等の議論があった。また、発展途上国からは、開発と小型武器の関係についてより明確に言及してほしいとの希望も出された。結局、行動計画 のフォローアップの仕組みを2006年以降どうするかということについて合意できなかったため、何度も草案を書き直しながら2週間にわたって議論したにも かかわらず、成果文書を採択することができなかった。これを救ったのがその年の第一委員会と総会(第61回)で、2008年に第三回中間会合を開催するこ とについては、かろうじて採決された。しかし、再検討会議でまとまらなかった点に関する意思決定をどうするかということについては未定のままである。

行 動計画から新たに発展した取組としては、小型武器の追跡(tracing)が挙げられる。小型武器を製造する時、そして輸出入をする時には再度、刻印を行 い、記録を管理することで小型武器を追跡可能にしようとする取組である。国際刑事警察機構(Interpol)では、銃の型式やモデルを特定し、その個体 が過去に犯罪に使われたことがあるかどうかを調べられるようなデータベースを試験運用中である。

また、非合法 取引の仲介(brokering)に関する取組も進んできている。武器取引を行う業者を免許制度に基づいて登録し、非合法取引に対する懲罰を設けて国際的 に管理していこうとするものである。非合法取引については、どこか一つの国の法律が整備されていなければその国を拠点にして非合法取引が行われてしまうた め、国際的な歩調を揃えることが必要となる。非合法取引の仲介については政府専門家会合(GGE)も開催されており、その報告書が今年の総会(第62回) に提出される。日本からも専門家が参加した。

2006年の再検討会議が不調に終わったのは、今後小型武器に関する国際基準を設定するにあたって限界が見えてきたからという背景もある。常に反対する国があれば、合意を形成するのは困難になる。

■4■ 小型武器に関する様々な取組

行 動計画とは別に、武器貿易条約(Arms Trade Treaty)を実現するための取組が進められているが、新しい条約を作るにあたっては、実現可能性、何を対象とするか、貿易が制限されるべき具体的な状 況(パラメーター)をどうするか等、議論しなければいけない点がたくさんある。2006年12月に国連総会決議で武器貿易条約を目指した決議が採択されて 以来(国連総会決議61/89)、各国が事務局に意見を提出している。また、行動計画に含めるか含めないかで意見が分かれた弾薬や携帯式地対空ミサイル (MANPADS)については、行動計画とは別に決議が採択されている(弾薬については国連総会決議61/71、MANPADSについては国連総会決議 60/77)。また、国際組織犯罪を防止するという観点からは、法的拘束力を持った議定書(「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約を補足する銃器 並びにその部品及び構成部分並びに弾薬の不正な製造及び取引の防止に関する議定書」2005年7月に発効)が存在する。

国 連ミッションが武装解除・復員・再統合(Disarmament, Demobilization and Reintegration, DDR)に従事する際の小型武器への配慮を定めた「武装解除・復員・再統合についての総合的基準(Integrated Disarmament, Demobilization and Reintegration Standards, IDDRS)」が2006年12月に発表された。この基準は、短期的な平和維持の取組が実施されている最中に、長期的な開発課題も見据えて小型武器の管理 を進めようとするもの。DDRウェブサイトからダウンロードできる。また、平和構築における治安部門改革(Security Sector Reform, SSR)の枠組みにおいても、小型武器の管理を進めるべきとされている。

国 連通常兵器登録制度というものがあり、1992年に設立されている。これは、(1)戦車、(2)装甲戦闘車両、(3)大口径火砲システム、(4)戦闘用航 空機、(5)攻撃用ヘリコプター、(6)軍用艦船、(7)ミサイルおよびその発射基、の七つのカテゴリーにつき、輸出入または移転があった場合に国連に届 け出るという制度である。現在140カ国ほどが参加しているが、2006年からはオプションとして小型武器の報告も可能にするために統一書式が設定され た。

2週間ほど前(6月29日)には、小型武器行動計画実施の重要性を認め、今後2年に一度定期的に安保理で 小型武器について審議するという安保理の議長声明が出された。実際には、2001年以降は毎年安保理で小型武器について審議が行われてきており、安保理が 発動する武器禁輸措置との関係における小型武器の重要性も指摘されている。しかし、安保理で小型武器について議論することに反対する国もあり、2年に一度 ということになった。

国連以外の機関においても、法的拘束力を持ったものも含めて、それぞれの地域で小型武器の枠組作りが進められてきている。たとえば、" 西アフリカ諸国経済共同体(The Economic Community of West African States, ECOWAS)における小型武器管理プログラムの発足(2006年)" アフリカ東部諸国11カ国による小型武器ナイロビ議定書の採択(2005年)" 南部アフリカ開発共同体(Southern African Development Community, SADC)による議定書(2001年)" 欧州連合(European Union, EU)による「武器輸出に関する行動規範(European Code of Conduct on Arms Exports)」の採択(1998年)" 欧州安全保障協力機構(Organization for Security and Co-operation in Europe, OSCE)における「小型武器に関する文書(Document on Small Arms and Light Weapons)」の作成(2000年)" 通常兵器及び関連汎用品・技術の輸出管理に関するワッセナー・アレンジメント(The Wassenaar Arrangement on Export Controls for Conventional Arms and Dual-Use Goods and Technologies)が制定した小型武器輸出に係るガイドライン(2002年)" 米州機構(OAS)による「銃火器、弾薬、爆弾及びそれに類する機材の製造及び不正取引に関する米州協定(Inter-American Convention Against the Illicit Manufacturing of and Trafficking in Firearms, Ammunition, Explosives, and other Related Materials, CIFTA)」の採択(1997年)" 中米統合機構(Sistema de la Integracion Centroamricana, SICA)による武器の不法所持等に共同対処するための行動計画の採択(2005年)等がある。

ま た、16の国連部局および専門機関が小型武器に関する政策調整を行う協議体として、小型武器行動調整メカニズム(Coordinating Action on Small Arms Mechanism: CASA)が1998年に発足した。各部局・機関はそれぞれの使命に基づいて参加している。たとえば平和維持活動局(DPKO)は DDR、人道問題調整部(OCHA)は武力紛争における文民保護、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は暴力からの難民の権利保護、国連開発計画 (UNDP)は開発を中心としたより大きな枠組の中における小型武器への対応、国連児童基金(UNICEF)は子ども兵士の問題、国連環境計画 (UNEP)は小型武器廃棄の際の環境保護および紛争後社会における環境評価、世界保健機関(WHO)は暴力からの保護、等それぞれの観点から行動計画の 履行に協力している。

CASA の枠組の下で、小型武器問題への対応に関する能力強化、現場へのミッション派遣、小型武器の回収および破壊等、既に様々なプロジェクトが実施されてきた。 関係者間での情報共有についても、CASAでデータベースを作り、小型武器に関する全国連加盟国192カ国の情報やDDRの成功事例をまとめている。日本 は、国連軍縮信託基金(Trust Fund for Global and Regional Disarmament Activities)の一部である小型武器基金(通称)への主な拠出国として、CASAのデータベース構築を支援している。

■5■ 日本の取組

日 本政府は小型武器問題に非常に熱心に取り組んでおり、国際社会でもリーダーシップを発揮している。国連小型武器政府専門家パネルや中間会合で議長国を務め たり、コロンビアや南アフリカ共和国と共に小型武器に関する国連決議の取りまとめにあたったりしている。また、二国間援助においても、カンボジアにおいて 2003年以来「カンボジアにおける平和構築と小型武器対策プログラム」を実施したり、他国においても、警察改革や教育支援、DDRの一部分としての小型 武器対策に資金援助を行ったりと、積極的に取り組んでいる。また、日本政府が主な拠出国である人間の安全保障基金では、人間の安全保障を実現するための治 安改善という観点から、コソボやタンザニアで小型武器対策が実施されている。

■6■ 日本政府の立場から【大村さんからのコメント】

これまで3年半ほど、国連日本政府代表部で軍縮を含めた様々な案件をみてきた。自戒の念を込めて申し上げれば、日本人の多くは軍縮の専門知識をあまり持って いない。歴史的背景もあって、「軍事はよくない」「軍縮をすべき」という感情は世界中のどの国よりも強いが、なぜそうなのかということが、教育の場で理論 的に教えられてきていない。アメリカ等では大量破壊兵器問題についても、理論に基づいた議論や主張がなされている。この勉強会を契機に、軍縮問題に対する 関心を深めて頂きたい。

小型武器問題については、(1)なぜ小型武器なのか、(2)この問題の何が難しいのか、(3)国連または日本に何ができるか、という三点を中心に考えてみたい。

ま ず、(1)なぜ小型武器なのか、であるが、小型武器とは基本的に昔から存在していたものである。戦後に登場した核兵器とは違って、殺傷兵器として身近なところにずっとあったものをいかに適切に管理できるかという点に、その国の統治能力が表れる。日本の戦国時代を振り返っても、安価で効率のよい武器を得た勢 力が勝利を手にしている。長篠の戦で織田信長が勝ったのも火縄銃のおかげだろう。武器によって覇権を取った勢力は暴力装置を独占する必要があり、そのため に過去の勢力は苦労してきた。これらの例には豊臣秀吉の刀狩、明治政府の廃刀令等がある。

国家による武器の管 理ということに関して言えば、無論西南戦争のような、政府に反抗する勢力による反乱もあったものの、日本は比較的成功した方なのではないか。島国であるために他の国からの武器の流入が少なかったこと、また、明治以前から藩制度があったためにそれぞれの藩の中で統治がしっかり行われていたこと等がその理由で あると思われる。

しかし、現代において同じように武器の管理を行うことはずっと困難である。一つには、数の多 さが挙げられる。益子さんの講演にもあったように、世界中で10億挺ともいわれる小型武器が安価かつ容易に手に入るようになっている。紛争を終えたばかり の社会で、昔の日本がやったことと同じことをやろうとしてもそう簡単にはいかないが、その手伝いをすることはできる。紛争後社会では、核兵器よりも大量破 壊兵器よりも、小型武器の存在が開発の障害となっている。だからこそ、そうして小型武器の管理を進めていくことが重要である。

次 に、(2)小型武器問題の何が難しいのか、という点については、第一にこれが比較的最近議論され始めた問題だからである。小型武器はようやく1990年代 後半から国際社会において問題として認識されたばかりであり、国連が本格的に取り組み始めたのも、ここ10年ほどのことである。核兵器の40年近い議論の 歴史に比べれば、小型武器問題についてはまだまだ議論が深まっていない。

第二の難しさは、小型武器には合法な もの、非合法なものの両方が存在するということである。核兵器で言えば、保有国と非保有国が存在し、保有国については一応保有が認められている。一つの国 の中に合法と非合法なものが混在しているというのが小型武器の特徴であり、どれが合法でどれが非合法かを識別するのは非常に難しい。

第三に、小型武器問題の多面性および複合性が挙げられる。小型武器問題は人権、開発、治安部門改革等、様々な立場にある機関が様々な角度から取り上げており、一つの切り口から考えればよいというものではない。その点では、対人地雷の問題とも似ている。

最 後に、(3)国連または日本に何ができるか、ということについて考えたい。これについては、益子さんの講演にあったように、国際社会におけるルール作りと 現場での支援を両輪で進めていくことが必要である。ルール作りについては、まずは会議を通じて少しずつ合意を形成し、行動計画を着実に実施していくこと。 小型武器の追跡(tracing)については一通りの目処がついた状況なので、今後は非合法取引の仲介(brokering)を中心に、一歩ずつルール作 りを進めていくことになるだろう。現場での支援については、平和維持活動、資金援助、NGOを通じた人的支援、小型武器をいかに効率的に破壊するか等の技 術支援を行っている。

小型武器、国際社会における対立の構図が核兵器や大量破壊兵器とは若干異なっている。核 兵器については、保有国対非保有国という一義的な対立が確立されているが、小型武器については、そこまで明確な対立はない。あえて言うならば、武器輸出国 とそうでない国、ということだろうか。小型武器問題への対応を進める上で、武器輸出国が障害となっている面もある。

日 本の観点から見れば、核兵器については、日本は被爆国である反面、日米安保条約に基づいた安全保障体制を持っているので、核廃絶を訴える際にも歯切れの悪いところがないとは言えない。他方で、小型武器については、アメリカとは違う立場を取ると割り切っている。もちろんアメリカの参加を得なければ実効性のある管理制度は作れないので、アメリカを孤立させずに国際社会の議論の場に留めるための配慮を示してきた。しかし基本的にはアメリカとの立場の違いを気にせずに日本の姿勢を打ち出すことができ、日本が活動する余地も大きい。

何ができるか、ということについては、国 連総会決議が国際社会におけるルール作りの源泉となっているので、今後もこれを柱として取り組んでいくことが重要。日本は国連小型武器基金及び国連機関に 対して相当な額を拠出している。国連人間の安全保障基金を通じた平和構築等、小型武器そのものではないにしても、小型武器問題と密接に関わる分野でも積極 的に支援を行っている。引き続き、ルール作りと現場での支援を基本姿勢として取り組んでいきたいと考えている。