マハトマ・ガンジーの非暴力主義

インドのグジャラート出身の弁護士、宗教家、政治指導者。インド独立の父。「マハートマー」とは「偉大なる魂」という意味で、インドの詩聖タゴールから贈られたとされているガンディーの尊称。

南アフリカで弁護士をする傍らで公民権運動に参加し、帰国後はインドのイギリスからの独立運動を指揮した。その形は民衆暴動の形をとるものではなく、「非暴力、不服従」を提唱した。

この思想はインドを独立させ、イギリス帝国をイギリス連邦へと転換させただけでなく、政治思想として植民地解放運動や人権運動の領域において平和主義的手法として世界中にきな影響を与えた。ガンディーに倣ったと表明している指導者にM. ルーサー・キングJr、ダライ・ラマ14世等がいる。

性格的には自分に厳しく、他人には常に公平で寛大な態度で接した。

ガンディーはヒンドゥー教徒だけでな、くイスラーム教徒にも影響を与えている。1947年8月のインドとパキスタンの分離独立の前後、宗教暴動の嵐が全土に吹き荒れた。ガンディーは何度も断食し、身を挺してこれを防ごうとした。しかし、ヒンドゥー原理主義者からはムスリムに対して譲歩しすぎるとして敵対視された。

1948年1月30日、ガンディーはニューデリーのビルラー邸で狂信的なヒンドゥー原理主義集団民族義勇団の一人らによって暗殺された。3発のピストルの弾丸を撃ち込まれたとき、ガンディーは自らの額に手を当てた。これはイスラーム教で「あなたを許す」という意味の動作である。そして、ガンディーは「おお、神よ」とつぶやいてこの世を去った。78歳であった。

Mohandas Karamchand Gandhi
1869年10月2日 - 1948.1.30
ガンジーの言葉
非暴力:
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非暴力は私の信念の第一章であり、また、私の信条の最終章でもある。

無暴力とは、悪を行う人間の意志におとなしく服従することではなく、暴力者の意志に対して全霊を投げ打つことである。

「我々人間は、どこへ行こうとも人々の心に平和と非暴力の種を蒔き続けることに命を捧げなければならない」

私は自分が死ぬ覚悟ならある。しかし、私に人を殺す覚悟をさせる大義はどこにもない。

はじめに彼等は無視し、次に笑い、そして挑みかかるだろう。そうしてわれわれは勝つのだ。(非暴力運動によるレジスタンスの確立から、勝利への戦略を云ったもの)

非暴力は暴力よりも無限に優れているし、許すことは処罰するより遥かに男らしい。

私には世界に教えられることなど何もありません。真実や非暴力は あの丘と同じくらい昔から すでに存在しているのです。

自分から負けに屈してしまわない限り、それは負けではないのだから、もがくことはみっともないことではない。

暴力によって得られた勝利は敗北に等しい。それはほんの一瞬しか続かない。

自然は時に残酷な暴力となって、人々に降りかかる。けれどもあらゆる出来事には意味があると考えるなら、私たちは自然の猛威さえからも、目をさらさずに何かを学び、救いの道を探るべきではないだろうか。

きっぱりと、心の底から発した「NO」という言葉は、相手に合わせて、ましてや面倒を避けるためについ言ってしまった「YES」に比べたら、はるかに価値のある言葉である。

自分とは異なる考え方を受け入れられないのも、暴力のひとつの形です。それでは真の民主的精神は、一向に育たない。

[表明をすることの大切さ]
何かを訴えたい、意志表明したいと思ったときに、それを話したり書いたりする必要はない。行動し、生き様で示すしかない。私たちは一人一人の生き様を、生きた教科書にしよう。誰もがそこから学び取ることができるように。

生は死から生じる。 麦が芽吹くためには、 種子が死なねばならない。

握り拳と握手はできない。


個人・良心・信仰・真理・自己主管 :
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あなたが、他の人々に求める変化を自分で行いなさい。

この世界の内に望む変化に、あなた自身が成ってみせなさい。

「人は、自らの内面から、自身の平和を見いださねばならない。そして、真の平和は外界の状況に左右されるものであってはならないのだ。」

あらゆる執着からの自由とは神を真理として現実化させることである。

なにかを信じておきながら、それに生きない ― それは不誠実というものだ。

自分自身の知恵に信をあまりに置くのは賢明ではない。心に留めるといい ― 最も強い者でも弱くなりえ、最も賢しい者でも誤りうる.

周知だからと言って間違いは真実にはならなければ、誰もそう見ないからといって真実が間違いにもならない。例え
大衆の支持無くとも、真実は立ち上がる。真実は自立しているから。

私は法を無視するのではありません。人間の存在から響いてくる最も高い法, 即ち良心の声に従っているだけです。

[本当の友情とは]
どんなときでも理解し合える関係を求めることは友情とは言えない。本当の友情とはお互いがどんなに違っていても、そのあるがままの違いをしっかりと受け止めることなのだ。
                               
男女や老病の別を問わず、人類全体に自分自身の自尊心と自由の守護者であるいう確信を与えることができれば、わたしの仕事は終わる。

祈りがなかったら、私はとっくの昔に気が狂っていたであろう。祈りはまさに宗教の魂であり、精髄である。だから祈りは人生の確信である。宗教心を持たずしては、何人も生きられないからだ。何か信じるものがあるのにそれに従って生き ない人間は信用できない。

明日、死ぬかのように生きろ。永遠に生きるかのようにして、学べ。死ぬ覚悟ができていれば、人は自由になれる。束縛があるからこそ 私は飛べるのだ。悲しみがあるからこそ 高く舞い上がれるのだ。逆境があるからこそ 私は走れるのだ。 涙があるからこそ私は前へ進めるのだ。

地球は、すべての人の必要を充足せしめても、彼らの欲を満たしきることはできない。

国の偉大さ、道徳的発展は、その国における動物の扱い方で判る。

目的を見つけよ。手段は後からついてくる。
"
我々の信念は、 常に燃え続ける灯火でなければならない。それは我らに光明を与えるだけでなく、 周囲をも照らしてくれる。

あなたの夢は何か、あなたの目的とするものは何か、それさえしっかり持っているならば、 必ずや道は開かれるだろう。

良心の問題に関しては、 多数決の法則は適用されない。

自分の知恵を確信しすぎるのは賢明ではない。一番強い者も弱り、 一番賢い者も誤るということを、 覚えておく事が健全である。

その日にすることの決意を、 毎朝の最初に行いなさい。

重要なのは行為そのものであって結果ではない。

行為が実を結ぶかどうかは、 自分でどうにかできるものではなく生きているうちにわかるとも限らない。だが、正しいと信じることを行いなさい。結果がどう出るにせよ、何もしなければ何の結果もないのだ。

たとえあなたが少数派であろうとも、 真実は真実なのです。

充足感は、 努力の中にある。 結果にあるのではない。努力することが成功することになるのだ。

真実はすべて心の中にある。 人はそれを探し求め、 真実によって導かれなければならない。

怒りは酸のようなもので、 注ぐものにも増して、その器に大きな害を与える。

自分が行動したことすべては取るに足らないことかもしれない。しかし、行動したという そのことが重要なのである。

怠けていることは喜びかもしれないが重苦しい状態である。幸せになるためには何かをしていなくてはならない。

行動の最中には静寂を、そして休息においては活気を学ばなくてはならない。

人間というものは信じた自分になることが多い。もし、自分にはそんなことはできないと思ってしまうと、それで本当にできなくなってしまう。しかし、もしできると信じたならば、たとえはじめはそのような能力がなかったとしても、それをなし遂げる力を得ることができるのです。

人生そのものが、私の教えです。

夫婦は対等であるべきだ。妻は夫に忠誠と献身を示さなければならないというのなら、夫も妻に対し同じように忠誠と献身を示すべきだ。決して夫婦を別々の物差しで計ってはいけない。

子供は真実を映し出す鏡である。彼らには驕りも、敵意も、偽善もない。もし思いやりに欠け、嘘つきで乱暴な子供がいたなら、罪はその子にあるのではなく、両親や教師や社会にあるのだ。

過去は私たちのものだが、私たちは過去のものではない。私たちは現在を生き、未来をつくる。たとえその未来に私たちがいなくても、そこには子供たちがいるから。

亡くなった人の思い出を不滅のものとするために、私たちはいま何をすべきだろう。涙を流すのはたやすい。しかし、それだけでは彼の身近な人々にも、彼を深く愛する人々にも、私たちにも、なんの慰めにもならない。私たちがすべきことは、亡き人がそのために生き、全力を傾けた仕事を引き継ぎ達成することだ。肉体は滅びても、魂は決して滅びない。亡くなった人の魂はそうして不滅のものとなる。

痛々しい前進であっても、この痛みは前向きな喜びだ。なぜなら、一歩前に踏み出すたびに、私たちは少しずつ強くなり、次に進んでいけると確信できるからだ。

死は積み重ねてきた努力の終わりを意味するのではない。精一杯生きた人生は、その次のより良き人生を導く。

私はずっと前に死を悲しむことをやめた。もちろん身近な人を亡くしたらショックを受ける。けれど立ち直るためにこう考える。死は救済であって、友人を家に招き入れるように受け入れるべきものだと。死は肉体からの解放であり、そこに宿っていた魂がなくなることはない

死ぬならば散るように、生きるならば枯れることなく。

[自分の身は自分で守るしかない]
自分の身は自分で守るしかない。政府がいかに努力したところで、あなた達を救うことはできまい。どれほどの権力があろうとも、国民の支持が得られない政府など無力だ。だから、明日はもう政府はないと思いなさい。そのとき、あなた自身が政府となるのだ。

[他力本願にならないことの大切さ]
これまでどおり自分以外の働きに期待し続け、誰かが動けば問題は解決すると考えている限り、私たちは自分たちの目的を達成してその成果を手にすることはできない。


幸福・努力・過程
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幸福とは、あなたが考えることと、あなたが言うことと、あなたがすることの調和が取れている状態のことだ。

幸せとは、誰かのために生き、その人の幸せな姿をこの目で見ることです。

幸せだけを追い求める心が悲劇を招き寄せる。幸せは悲しみと苦しみを克服した心が生み出すものです。

いま以上の何か、ここではないどこかにある幸せ、それを追い求めても、それは蜃気楼です。近づけば近づくほど、遠のいていきます。いまここにあるもの、それに満足することが幸せなのです。

努力することは人間の務めである。最善を尽くしてもがいているときに、たとえ災いに押し流されそうになっても、決してくじけてはいけない。

[不幸は試練]
すべてを運命のせいだと諦めてはいけない。これまでの努力を無駄にしないためにも。不幸は私たちに与えられた試練である。この試練を乗り越えたとき、すべてはきっと好転する。そう信じて、辛抱強く耐え抜こう。耐え抜いたとき、あなたはとてつもない力を手にしていることだろう。

[不満は良いこと]
不満は不安の表れである。不満が国中に広がることは、少しも悪いことではない。むしろそこには希望の光がある。現状に甘んじている限り、人はそこから抜け出そうとしないものだから。

そんなことはこれまでの歴史にはない。だから起こるはずがない。そう思い込んでいる人は、人間の持つ大きな可能性を見ない人だ。私たちは、まずそんな思い込みから自由になろう。そして、自分の心が正しいと思うことを、やってみればいい。
するなら、歴史を繰り返すのではなく新しい歴史をつくろう。私たちの祖先が残した遺産に、新たな良きものを加えよう。


愛・許し・寛容:
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「人間性への信頼を失ってはならない。人間性とは大海のようなものだ。ほんの少し汚れても、海全体が汚れることはない。」

世界の不幸や誤解の四分の三は、敵の懐に入り、彼らの立場を理解したら消え去るであろう。

『もし、ただ一人の人間が最高の愛を成就するならば、それは数百万の人々の憎しみを打ち消すに十分である』

「目には目を」という考え方では、世界中の目をつぶしてしまうことになる。

「敵と相対するときには、その敵を愛で征服しなさい。」

弱いものほど相手を許すことができない。許すということは強さの証だ  

博愛を実践するには、もっとも大きな勇気が必要である。

私はヒンズー教徒でありイスラム教徒でありキリスト教徒でありユダヤ教徒です。枝は違っても皆、一つの木なのです。

「イギリス人が敵なのではなく彼らの考え方が敵なのであり、問題さえ解決すれば必ず良き友人になれる」

私はもっとも大きな愛を、間違ったことへのもっとも大きな反対と結びけることができる。

過ちを告白することは掃除に似ている。箒で埃を払ったあとは、すっきりときれいになり、晴れやかな気分になる。告白することは、より強くなることなのだ。

人は欠点に気づいたならば、即座にそれを改めなくてはならない。改める行為そのものが、人間にとって価値ある正しいことなのだ。間違っても、欠点を見て見ぬふりをして、状況を悪化させてはならない。

人類が絶えず愛の掟に従ってきたかどうか、私は知らない。しかしそれは私の邪魔にはならない。愛の掟は ちょうど重力の法則のように働く。我々がそれを認めるかどうかには関わりがない。愛の掟に気がついた人は、 我々の今日のどんな科学者よりもはるかに偉大な学者だろう。たんに我々の探求がそこまで十分に行き届いては いないために、誰にでも愛の法則が働くのが理解できるようになっていないのだ。 臆病なものは愛を表明することができない。愛を表明するとは勇敢さの現れである。    

私の行動すべては人類への避けがたい愛のうちに源を持っている。

罪を憎みなさい、罪人を愛しなさい。

あなたが何をするにしても、それは些細なことでしょう。しかし、それをするということがとても大切なことなのです。

間違ったことをしている人を見たら、自分だって間違いを犯したことがあると思い起こそう。欲深い人を見たら、自分もかつてそうだったと思おう。こうやって世界中のあらゆる人に自分との共通点を見出せば、自分の幸せと同じように、人々の幸せを願うようになるだろう。

私たちのように未完成な人間に、何もかも完璧にこなせるわけがない。私たちにできるのは、その時その時の妥協点を探ることである。

愛国心は人類愛と同一である。私は人間であり、人間的なるがゆえに愛国者である。

女性の直感は、しばしば男性の高慢な知識を凌ぐ。

[国民一人一人が考えることが大切]
政府や政治家を批判するだけではなく自分で考えてみよう。人は往々にしてマスコミの報道に振り回され、優柔不断に考えを変える。時計の振り子のように決してとどまることがない。弁の立つ人や、根回し上手な政治家をつい支持してしまう。国民にも政府と同様の責任があることをしっかりと胸に刻もう。


為に生きる(価値と事実の統一):
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最高の道徳とは、不断に他人への奉仕、人類への愛のために働くことである。

『すべての人の目から、あらゆる涙を拭い去ることが私の願いである』

道徳と進歩と改善は、つねに不利不可分の関係にある。

人はなぜ心に恐れを抱くのか。それは、自分の魂の力を、真理の力を信じていないから。しかし、信じる心は理性の力で得られるものではない。それは、自分自身のためではなく、他人のために働き続けることで、ゆっくりと自分のものになる。

私が生きんがため、奉仕せんがために食べるし、また、たまたま楽しむために食べることがあっても、享楽のために食べるものではない。

あまりにも多くの食料が、裕福な人々によって浪費されている。食料を切実に必要としているのは、貧しい人や苦しんでいる人たちだ。なのに、一部の人々の贅沢が、彼らから食料を奪ってしまう。だから裕福な人は粗食を心がけなさい。それは体調を損なうどころか、むしろ健やかな体を手に入れることにもなるのだから。

[物欲の執着から逃れるには]
この世にあるものはすべて、生成と消滅を繰り返すものと考えれば、人は物欲の執着から逃れることができる。

本当の富とは、 健康のことであり、 金や銀のことではない。

必要なものだけを得る、シンプルで簡素な暮らしでいい。そんな精神を持って働く人々の仕事を評価しないのは大いなる損失である。

人は自らの手足を使って働き、日々の糧であるパンを得るべし。額に汗して働かない人に、どうして食べる権利があるだろう?

お金の神を崇拝する私たちは、ものがあふれかえった便利な暮らしに溺れている。しかしこのような暮らしは、精神的に豊かな暮らしとは決して両立するものではない。金銭欲や物欲から離れ、品位のある暮らしができて、人は初めて、他者を思いやる人生を過ごすことができる。

暮らしの中に、ある程度の快適さは必要です。しかし、一定レベルを超えると、それは役立つどころか心の足かせとなります。あれもこれもと際限なく欲しいものが増え、その欲求を満たさずにはいられなくなる。快適さとは、心にとって惑わしであり落とし穴なのです。

土地や財産を持つのは重荷である。この思いは私の中にずっとあり、ますます膨らんでいる。それはつまり旅に出る前の心得と同じだ。旅人は自分の荷物をできるだけ少なくして、身軽に旅をしようとする。それと同じで、私も余分な荷物など持ちたくはない。

私が富める人々に対して言えることは、富を捨てることによって富を享受せよということです。あなた達はあらゆる方法によって富を得なさい。しかし、その富はあなたのものではないことを知りなさい。それは人々のものです。必要なものだけを取り、残ったものは社会のために使いなさい。

私は、あなたが正しい手段で手にした資産を捨てろとは言わない。しかしその資産は、決してあなた自身のものではない。それは人々のために役立てることができるように、あなたに一時的に預けられているものだ。そのことを忘れてはならない。

あなた達資本家の財産は、自分だけのものではない。あなたのいまの地位と財産は、従業員の勤勉な汗によって得られたものなのだ。彼ら従業員をあなたの財産の共同所有者とする必要がある。そしてその富は、もっぱら彼らの利益のために捧げげて欲しい。

私たちの体は奉仕に捧げるためのものである。決して自分だけのものではない。だから、一人一人が自分の体を守るボディガードとなって、体調を万全に整える術を身につけよう。いざというときに、この体を差し出し、役立てることができるように。

簡素に暮らし、豊かに思考する。そんな理想の追求を、人はひとたび日々の暮らしの中で欲を膨らませた途端捨て去ってしまう。人の本当の幸せは、満足することにあるのに。

もしも私にユーモアのセンスがなかったら、はるか昔に命を絶っていただろう。

人は何度でも立ち上がる。立ち上がっては倒れ、立ち上がっては倒れ、その足元はおぼつかないかもしれない。けれども、立ち上がったことは、一生忘れることのない、かけがえのない記憶となる。

私たちにはもともと困難を乗り越える力が授けられている。心の中からこの恐れを追い出せば、その力が蘇る。恐れるな、道は開ける。

あらゆる改革は、不満を抱くことから始まった。いままで当たり前のように受け入れられていたものを、嫌悪するようになったとき、人は初めてそれを捨てることができる。

[理想に進み続けることに価値]
理想に近づこうと努力すればするほど、理想は遠ざかっていく。しかし理想の実現よりもはるかに価値あることは、熱い思いをもって前に進み続けることである。ときにつまずき、ときに倒れることもあるだろう。それでも私たちは再び立ち上がる。現実から逃げることさえしなければ、それで充分である。

道徳と進歩と改善とは、つねに離れることのできない関係にある。

誤りを犯すことの自由が認められない自由なら、価値がない。

7つの社会的大罪: 
 ① 原則なき政治  ② 道徳なき商業  ③ 労働なき富 ④ 人格なき学識 ⑤ 人間性なき科学 ⑥ 良心なき快楽 ⑦ 献身なき信仰    


速度
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速度を上げるばかりが、人生ではない。善いことは、カタツムリの速度で動く。

良きことはカタツムリのようにゆっくり進む。だから、自分のためでなく人々のために働く人は、いたすらに急がない。なぜなら、人々が良きことを受け入れるには、多くの時間が必要なことを知っているからだ。

運命は私たちがつくるものだ。いまからでも遅くない。いまをどう生きるかで、
未来が決まる。

私たちは人生の中で経験したことを、何もかも覚えていられるわけではない。むしろほとんど忘れてしまっていいのである。そうでなければ、後悔や迷いが頭から離れることがないだろう。ある出来事があって、そこから何かを学んだなら、起きたことは忘れてしまおう。


西洋文明
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「西洋文明についてどう思いますか」という記者の質問に答えて。
いい考えだったんだろうとは思うね。しかし、「ヨーロッパは、神の、あるいはキリスト教の精神を代表していない、むしろサタンの精神を表している」、というのは私の堅い信念である。そしてサタンの成功が最大のものとなるのは、そ口に神の名をのせて現れるときである。 西洋のキリスト教が実際に行っていることを考えるに、キリストの[実践した]キリスト教の否定だと思う。

日本に対して
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私は、あなたがた日本人に悪意を持っているわけではありません。あなたがた日本人はアジア人のアジアという崇高な希望を持っていました。しかし、今では、それも帝国主義の野望にすぎません。そして、その野望を実現できずにアジアを解体する張本人となってしまうかも知れません。世界の列強と肩を並べたいというのが、あなたがた日本人の野望でした。しかし、中国を侵略したり、ドイツやイタリアと同盟を結ぶことによって実現するものではないはずです。あなたがたは、いかなる訴えにも耳を傾けようとはなさらない。ただ、剣にのみ耳を貸す民族と聞いています。それが大きな誤解でありますように。  
       あなたがたの友 ガンディーより  (1942年7月26日)