市民国連・創立3周年記念 基調講演  wordmemo

「アフリカの平和と開発のために、
      国際社会は何ができるのか?」


  池亀美枝子氏

 (国連事務総長室アフリカ上級担当者・TICAD国連代表)

             
 2008年12月23日(火・祝日)早稲田大学14号館 101教室
                   
                              
―はじめに―      


こんにちは。年末のクリスマス前日の休みに来てくださりありがとうございます。
今日、皆様方は、いらっしゃった時、受付で国連広報センターが出している『世界で
働く日本人国連職員』という本を見られたと思います。現在100名以上の日本人が
国連の職員として働いていますが、日本では、国連は本当に遠い存在のように思われ
ているのではないかと思います。しかし、日本は国連予算の20%を負担し、支援し
ています。皆様の支援と協力なくしては、私たちは働くことはできません。もっと身
近に国連の仕事と国連職員を知って欲しいということで今回の講演をお受けしました。
「アフリカの平和と開発のために国際社会は何ができるのか?」という大変大きな課
題をいただきましたが、今日は、勿論、私、池亀美枝子個人として、28年間働いてきた
国連での仕事、経験してきたことを共有できれば嬉しく思います。
 国連は、加盟国の政府から成り立っていますので、国連での話し合いの中心は加盟
国政府です。国民一人一人は、国連の仕事は政府に任せていれば良いと考えているので
はないかと思いますが、世界が直面している様々な問題の解決のために、政府のできる
ことは限られています。貧困、平和の問題。これは私たち一人一人にとって重要な課題で
ありますから、皆様がそれぞれの立場で、考え、活動していくことなくしては解決不可能
です。
 今回の市民国連フォーラムは非常に重要な目的を持っています。皆様の活動を通して、
国連で採択された目標を皆様とともに実行できるようにするにはどうしたらよいのか皆様と
共に考えて行きたいという気持ちからこの講演をお受けしました。


―国連での仕事―

 国連は、皆さんがテレビで見られる、ニューヨークの各国の国旗が立っている国連ビルに
ある国連本部だけではありません。国連システム全体は、約40の関連諸機関から成っており、
その中の「専門機関」には、国連ができる前にできたものもあります。国連本部は会議をし、
意見調整するところでしかありません。私は最初に、国連アソーシエイト エキスパートの
日本人女性第一号に採用され、イタリアの首都ローマにあるFAO(Food and Agriculture
Organization)という機関に入りました。FAOは、「食糧農業機関」と言いまして、開発途上
国の食糧、農業、漁業、林業の生産性を高めるために必要な技術援助を提供することを通じて、
その国の経済開発に貢献することがその役割です。ここに初めて入りました。その後、国連の
正規職員に採用されて、同じローマに所在するWFP(World Food Program)に移りました、この
WFP、「世界食糧計画」は名前のとおり食糧援助をやっているところです。その援助の規模は
全ての国連機関の中で一番大きなものです。食糧が余っていて提供できる国から、それを必要
としている国に運ぶのが仕事です。しかし、日本のように食糧が余っていない国でも、食糧援助
を支援することができます。三角協力といいまして、日本は資金、例えば1ドルを提供すると、
その1ドルでパキスタンの米を買って、困っているバングラディッュにやる。そうすると、
パキスタンは1ドルの外貨収入を得て、バングラデッシュには必要な食料が届くと言うわけで、
ダブルのインパクトがあります。日本は資金を提供することで、他の国とは違った方法で食糧
援助に貢献しています。食糧援助というと、テレビで報じられるように、飢餓になって倒れて
いる人が対象と思われるのではないかと思いますが、もうひとつの重要な食糧援助があります。
例えば、その当時私が担当していましたパキスタンでは、過剰伐採で山が坊主になって、植林の
必要がありました。植林作業には労働力が必要です。そのような労働に従事するする人はどちらか
といいますと、食料に困っている貧困層の人が多い。そのような仕事を支援するためにWFPは、
労働者の一日の賃金のうち、半分は食糧を与えて、半分は現金を与える。食糧分は普通その土地の
市場で手に入れることのできるものの約3倍相当のものを提供するので、働く人の家族にとって
大変助けになります。これを「Food for work」と言って、開発活動に携わる労働の対価として、
食糧を提供するわけです。
 また、担当していましたブータンでは、WFPが食糧を提供することで学校給食を始めました。
ブータンでは学校給食は初めてのことで、そのおかげで、子供の小学校出席率が、男子は2倍、
女子は3倍に伸びました。女子の伸びが大きいのは、ブータンの家庭では、普通、両親は、男の
子は学校にやりますが、女の子の場合は家の仕事を手伝うことが多いので学校になかなか行かれ
ません。それを改善するために、女の子の場合は給食のみならず、一人分の食料を持って帰って
良いということにしたところ、3倍も出席率が上がったと言うわけです。
 このように、ローマでは、食糧、農村開発の分野で仕事をしました。
 
 
―国連本部でTICADを手がけるー

 1990年にローマを離れ、国連本部に参りました。国連本部は政策を議論する場で、これまでの
ように現場の仕事を実施するところではありませんが、FAO, WFPでの現場の経験をを踏まえ、政策は
どうあるべきかと言った議論に貢献しました。最初は、開発、国際協力担当の事務次長室に配属され、
国連システムの約40の機関の活動をどのように調整をして、足並みを揃えて、同じ目的に向かって
仕事ができるかという報告書の作成に参加しました。
 1993年、日本は国連総会でアフリカ開発会議の開催を提唱しました。その際、国連に共催者になって
欲しいとの話があり、その話し合いに参加しました。そして、どちらかと言えば、あまりアフリカの
経験を持っていない日本に、国連の知識と経験を提供するため、国連から日本の外務省に派遣され、
日本の外務省で仕事をしました。その後、UNDP(国連開発計画)で約2年間仕事をした後、再びローマ
に戻り、FAOで、民間セクターとの協力を担当する課長を経験しました。民間セクターとは、勿論、
市民の皆様のことですので、今回のフォーラムの目的、趣旨に大いに共鳴し、支持しています。
 2002年に、再び国連本部に戻り、現在のアフリカ担当専門室に入りました。国連では約70%の仕事が
アフリカ関連と言って過言ではありません。1992年以来、国連の経済社会開発局の中に、アフリカ
を専門に担当するオフィスがありましたが、2003年に機構改革により、経済社会開発局とは独立して、
現在のアフリカ専門室が設置されました。ミレニアム開発目標が合意されましたが、そのような開発目標
を達成するためには、紛争を解決し、平和と安定を維持することが不可欠です。平和と政治的安定が無い
と経済社会開発に繋がらない、また、経済社会開発が無いと、再び紛争に逆戻りしてしまう。アフリカの
発展のためには経済社会開発分野と、平和維持、構築の政治的分野を包括する取り組みが必要との考え
から現在勤務していますアフリカ専門室が事務総長直属の部局として設置されました。そこで仕事をして
います。皆様のお手元の「国連のアフリカ活動」にはその専門室の活動が、また、「世界で働く日本人
国連職員』には私の活動が紹介されています。


―私とアフリカとの出会い―

私とアフリカとの最初の出会いは、1981年、FAOに入って、2年目に、レソト(南アフリカの真ん中に
ある小さな国)と西アフリカのシェラレオーネを訪問することから始まりました。
 レソトを訪問するためには南アフリカに立ち寄る必要がありますが、実はその当時、南アフリカは、
人種差別をやっていて、国連職員は南アフリカを訪問することは許されていませんでした。しかし、
レソトに行くためには南アフリカのヨハネスバーグ空港で飛行機を乗り換える必要があります。
ヨハネスバーグの空港に着くと予約していたはずのレソト行きの小さな20人乗りの飛行機が満員で、
予約が取れていないことが判明し、ヨハネスバーグで一泊しなければならないこととなりました。
そこで人種差別が問題となったのです。白人と黒人は隔離されていて、泊まるホテルが異なるのです。
同行していたのはギリシャ系のアメリカ人女性でしたが、アメリカ人にはいろいろな人種の人がいます。
彼女はたまたま、南フランスの海岸で休暇を過ごしたばかりで、日焼けして真っ黒になっていました。
一泊するため、ホテルに行くこととなりましたが、私は日本人と言うことで、名誉白人扱いにされ、
白人用のホテルに、ギリシャ系アメリカ人の彼女は日焼けして真っ黒であったため、黒人用のホテルに、
と分けられたのです。彼女はこのような差別に憤慨し、レソト行きを取りやめ、ローマに帰ると言い出し、
困り果てましたが、彼女が大声で、大騒ぎをしたこともあって、航空会社がその日の乗客を説得して席を
譲らせて、われわれのための席を用意してくれました。そのおかげで、ヨハネスバーグに一泊すること
なくレソトに行けることとなって、問題は解決しましたが、20世紀も後半になっても、このような人種
差別、人種隔離が現前に行われていて、それも一緒にホテルに泊まれない、というショッキングな現実を
見たわけです。

次に訪問したのは西アフリカにシェラレオーネです。今は紛争を克服して復興に大変頑張っている国で、
最近の経済成長率は10%を超えています。1980年当時は、政情は不安定で、大変な所でした。女性の
生活向上のために、農村の実態を調査することとなりました。熱帯雨林のジャングルに入り、調査対象の
村を訪問したのですが、われわれに会ってくれるのは男性ばかりで、女性にはなかなか会えません。
そこで、村の長、男性の酋長さんに女性を集めて欲しいと依頼したところ、村の集会所は男性が集まる
ところで、女性が使ったことはないと言うのです。集会所は屋根のついた相撲の土俵のようなところで、
女性はそこに一度も上ったことはないと言うわけです。それでは困るので、是非、女性を集会所に集めて
欲しいとお願いしたところ、国連のお願いと言うことで、なんとか受け容れて頂き、部落で初めて女性を
集会所に集めてもらいました。女性が集まった周りを男性が取り囲むと言う形になりました。そこで、
通訳を介して、「何か生活で困ることはありませんか」と質問すると、女性たちはお互いの顔を見合わせ、
にこにこ笑って、「何も問題はありません」と言う。いろいろ突っ込んだ質問をするのですが、なかなか
本音が聞けません。そこで私が、「ところで、お水はどうしているのですか」と質問すると、女性たちは
口々に、それが一番大変だと言い始めました。水は女性たちが遠くの井戸から運んでいるのです。子供を
連れて、また、妊娠しているときでも、毎日何回も村からかなり離れたところにある井戸に水汲みに行か
なければなりません。男性たちは、「そんなことはない、井戸は近くて、便利なところにある」と主張
するのですが、男性は水汲みに行ったことはありません。女性たちからは当然反論が出ます。部落で
初めて水汲み問題について皆が話し合う機会となったのです。本当に小さなことかも知れませんが、
このような国連の取り組みが、アフリカの女性の生活改善につながったらと希望が持て、仕事に意義を
感じました。



―アフリカの現状と課題について―

アフリカは53カ国もある大きな大陸です。人口約10億、世界の15%です。土地面積は世界の22%(五分の一)
です。エイズの問題があり、18歳以下の人口が50%。平均年齢が22歳。ということで働き盛りの労働者が
人口の大きい部分を占めています。しかし、世界の総生産(GDP)に占めるアフリカをシェアーはわずか
2%にすぎません。シェラレオーネのように最近は高い経済成長率を記録し、有望と考えられている
ところもあります。また、対アフリカ直接投資も増えています。全体的にアフリカは経済成長が上向きに
なっていると思います。天然資源、鉱物資源も豊かな国も有望ですが、農業を中心としたモザンビーク、
ガーナ、タンザニアといった、国も比較的に高い成長率を示しています。天然資源国のみならず、アフリカ
大陸が一層懸命頑張っているということがわかると思います。もうひとつは、アフリカは紛争で多くの人を
亡くしてきました。しかし、ここ10年間、紛争は40%減少し、紛争を経験した国も政治、経済的に新しい
段階に入っていると思います。新しい現象としては、これまでアフリカの貿易相手はヨーロッパが主体で
あったわけですが、近年は、ヨーロッパ30%、それと同じくらいアジアに向けられている。投資と貿易で
アジアを相手にアフリカが成長しています。また、外国にいるアフリカ人が貢献をしております。彼らが
大変な苦労をして稼いだお金を本国に送金していますが、その額が大変大きくなっています。これが世界の
対アフリカODA援助総額に等しいのです。これはアフリカの自助努力に繋がっているという大切な現象と
思われます。経済社会面については、2000年、国連が採択したミレミアム開発目標は8つありますが、他の
地域と比べれば低いのですが、ここ10年間、アフリカの目標達成率は徐々に上がっております。貧困に
ついては、ここ10年間で、一人、一日1ドル以下の生活をしている人の割合は、46%から40%に下がりま
した。また、初等教育の達成は、2000年では57%でしたが、2005年には70%に上がりました。80%、100%
達成している国も9カ国あります。8つの目標の中で大きな問題を抱えているのは、HIV(エイズ)の問題と
妊産婦の死亡率です。世界の70%のエイズ患者がアフリカにいるのです。これがアフリカ各国の平均寿命に
大きく影響を与えています。ボツワナ、ジンバエフでは30歳も下がりました。ボツワナでは65歳から35歳に、
ジンバエフでは、63歳から38歳に下がりました。南アフリカは経済的に開発の進んだ国ですが、ここでも
平均寿命は63歳から48歳に下がっています。エイズがいかに経済社会的に大変な影響を及ぼしているかが
わかります。しかし、一方では平均寿命が上がった国があります。たとえば、西アフリカのブルキナファソ
では、1960年には32歳が2006年には57歳と上がっています。アフリカは53カ国あるけれども、それぞれの
国によって状況が違います。
 心が痛むのは、妊産婦の死亡率です。アフリカでは56人に1人、先進国では、3800人に1人です。この死亡
率改善のためには、国際社会による支援、特に草の根、市民レベルで活動が大切だと思います。

一言、ジェンダー(女性問題)のことに触れておきたいと思います。いろいろな統計がありますが、ひとつ
だけ、アフリカに方が日本より進んでいると言える数字があります。アフリカ各国における国会議員の中に
占める女性の数はこの20年間で7%から17%に増えました。日本より良い数字ではないかと思います。
ここでひとつエピソードを紹介したいと思います。1993年に第1回TICADが行われ、その後、1995年に、
東京でアフリカ開発のためのシンポジウムをを開催しました。そのシンポジウムの議長は国連日本政府代表部
の大使が務めることとなっていたのですが、急にできなくなったので、誰を議長にするかが問題となりました。
私は、強くモザンビークのグラチャ マシェル夫人を推薦しました。グラチャ マシェル夫人はモザンビーク
独立の父と言われた故サモラ マシェル大統領の夫人です。夫の大統領は暗殺されましたが、夫人はモザン
ビーク政府の閣僚を務めたことがあります。そして、この東京のシンポジウムに参加した15名の中でただ
一人の女性でした。日本の外務省の担当者は女性を議長とすることに難色を示しましたが、私は強くマシェル
夫人を押しました。それで議長は彼女にお願いすることになりました。彼女とは長い知り合いです。初めて
彼女に会ったのは西アフリカのベニンで、アフリカの大きな首脳レベルのサミット会合があり、その会合では
女性が少なかったので、自然と話し合うようになりました。そこで、二人で写真撮りましょうと言うことに
なり、誰に撮ってももらおうかと、周りを見ますと、近くに初老の立派な紳士がいましたので、その人に頼
もうと思いました。すると、マシェルさんは、その人には頼めません、と言うのです。その初老の紳士は
セネガルの大統領だったのです。国連でアフリカを担当しながら、アフリカのについて無知であった私を、
アフリカの指導者の何人かを紹介して下さるなど、暖かく指導して頂きました。その後、マシェルさんは
南アフリカのマンデラさんと結婚され、今はマンデラ夫人です。外務省の担当者は驚いたことと思います。
勿論、東京でのシンポジウムではすばらしい議長振りでした。
グラチャ・マシェルさんは現在もアフリカのために活躍されています。最近では、ケニアの国内政治的対立、
紛争に際して、仲裁委員会の賢人の一人として貢献されています。同じく私の長い知り合いで、私の上司でも
あったリベリアのエレン・ジョンソン・サーリフ大統領もアフリカのために活躍している女性指導者の一人です。


―国連の役割の推移について―

 国連は、皆さんも御存知の通り、第2次大戦が終わった1945年に設立されました。国連の役割は戦争で破壊
された世界の秩序をどう再建するか、維持して行くかでした。しかし、1960年代、70年代にこれまで植民地
であった多くの国が独立しました。国連の役割がどのようにしてこのような新しい国の独立を助けるかという
方向に移りました。例えば、1970年代の10年間で30カ国の新しい独立国が国連に加盟しました。植民地が
独立し、新しい国が誕生した場合、それを世界が認めてくれる必要がありますが、国連に加盟することで独立
国として認められるわけです。1960年代、1970年代、多くの国が国連に加盟しました。そして、そのような
新しい加盟国は開発途上国ですので、こうした途上国の経済社会が開発され、発展することが世界平和につながる
との認識から、途上国に対する開発援助が重要な課題になりました。例えば、1965年、国連開発計画(UNDP)、
国連児童基金(UNICEF)が新しくできました。冷戦時代、アフリカでは多くの国で内部紛争が起こり、そのよう
な紛争にアメリカ、ソ連がそれぞれ対立する立場から関与しました。そのためもあって、紛争の解決のために
安保理はなかなか機能しませんでした。アメリカ、ソ連が同意しないので決議が通らなかったのです。アフリカ
の悲劇は国内紛争が米ソの代理戦争と言う形となったため、解決が困難となり、多くの人が亡くなりました。
大きく変わったのは、1990年、ソ連が解体し、冷戦が終わったからです。ソ連より独立した多くの国が新しく
国連に加盟しました。また、米ソ対立と言う冷戦の構造が解消したため、アフリカの紛争は言わば純粋の国内
紛争と言うこととなり、そこでは国連の役割も変わらざるを得ません。国連憲章で謳う、紛争の平和的解決と
平和の維持は、国家間の紛争を想定したものです。主権国家の国内紛争について、国連として、どの程度、
どのように介入できるかが大きな問題となります。そのような紛争の増加に伴い、国連の平和維持活動は拡大
して行きました。そして、その経費も国連本部の通常予算の3倍を超える規模に達しています。その活動に動員
されている人員数も11万人を超え、国連諸機関総職員数の4倍を超えています。


―国連とPKO&平和運動―

国連には、その活動の柱となる2つの理事会があります。経済社会分野の「経済社会理事会」と、政治分野の
「安全保障理事会」です。国連憲章上、経済社会理事会(経社理)の決議は加盟国に対する勧告にとどまりますが、
安全保障りじかい(安保理)の決議は加盟国を拘束します。すなわち、加盟国はその決議を実施する義務が
あります。その意味で、安保理には力があるのです。国内紛争を解決し、平和を維持するためには、その国の
経済社会の開発と発展が不可欠です。また、経済社会の開発、発展は平和と安定なくしてはありえません。
そのような認識から、近年は、これまで経済社会理事会で採り上げられてきた諸問題が安全保障理事会でも
議論されると言う現象が起きています。例えば、女性問題です。紛争の解決と平和の維持との関連で、女性の
役割は極めて重要です。安保理で女性問題が議論され、決議が採択されました。また、最近では、地球環境問題
である気候変動、地球温暖化問題が、国の安全に関わる問題であるとして、安全保障理事会で議論されました。
国連での議論は、国連の2つの柱である経済社会理事会と安全保障理事会が相乗効果をあげるようなダイナミック
なプロセスに変わりつつあるのです。そのような動きの一つとして、2年前に「平和構築委員会」が設立されました。
単に平和を維持するのではなく、紛争後の平和と安定を積極的に造り上げて行こうとの考えです。日本はこれまで
経済社会分野の開発協力を中心としてアフリカの開発に貢献してきましたが、2006年にはTICADのプロセスの一環
として、平和構築を話し合うアフリカ閣僚会議を開催しました。また、日本は、2007-2008年、「平和
構築委員会」の議長を務めました。来年(2009年)には日本は再び非常任理事国として安保理の議論に貢献
する立場となります。日本は加盟国の中でブラジルを抜いて最も数多く非常任理事国の選ばれた国です。経済開発
分野のみならず、平和構築の分野でも貢献して欲しいと願っています。

このような国連の新しい役割である平和維持、構築に関連し、私自身の経験したことを紹介したいと思います。
最初に御紹介した「世界で働く日本人国連職員」にある私の写真に関連しています。アフリカでは近年、紛争の
数は少なくなって来ていますが、なかなか紛争の種は絶えません。紛争を経験した国の半数が紛争停止後5年
以内に再び紛争を繰り返すと言う統計があります。このような悪循環を断ち切るにはどうしたらよいのか。
国連では、紛争停止後の平和と安全を維持し、平和を構築していくために、紛争を戦った兵士たちの「武装動員
解除と社会復帰」(Disarmament, Demobilization and Reintegration—DDRと言います)に取り組んでいます。
このDDRの中で、「R」、すなわち、「社会復帰」支援が特に重要と考えています。子供のときから武器をとって
戦うことを強いられた兵士たちをどうやって社会復帰させるか、頭を切り換えて国づくりに向けさせるかが
問題なのです。昨年、国連は、現在アフリカ各地で進められているDDR活動の経験を共有し、DDR活動を効果的に
進めるために、アフリカの20カ国と日本を含む援助国、及び世銀などの援助機関を集め、国際会議をコンゴ
民主共和国の首都キンシャサで開催しました。私はその会議の担当者(コーデイネーター)として参加しました。
 国連は1948年以来、数多くの平和維持活動に従事してきていますが、現在、16の活動を実施しており、
そのうちの8つがアフリカで行われています。その中でもコンゴで展開されている平和維持活動は最も大きい
規模のもので、2万2000人の平和維持部隊が動員され、経費も年間数億ドルの規模です。その平和維持活動の
一環としてコンゴでもDDRが実施されているのです。キンシャサでの会議の準備のために、このDDR活動が
実際に行われている現場を視察する機会がありました。
現場は、コンゴ民主共和国北東部、キンシャサから飛行機で約2時間のところにある、キサンガニと言う町から、
さらにジープで数時間をかけて、ジャングルの中に入ったところにあります。そこに行くには幅広いコンゴ川を
イカダで渡らなければなりません。イカダにジープを載せて渡りました。そこは、武装解除された反乱軍兵士
たちが集められ、あらためてコンゴ国軍の兵士となるための訓練を受けている基地でした。広場に到着すると、
そこには3700名の兵士たちが整列し、私たちを待っていました。雨の中を2時間も待っていたそうです。
私たちは整列した兵士たちを閲兵したわけです。
ここに集められている兵士たちは、ついこの間まで、お互いに戦った人たちです。武装を解除されて集まった
兵士たちの多くは、最初の一週間は出された食事に手をつけないそうです。つい最近までお互いに銃で打ち
合っていたのです。毒が入っているのではないかと、出された食事を信用していないのです。兵士たちに、
どうして兵士になったかを聞くと、「自分の部族を守るため、村を守るため、家族を守るため」と言う、
公式的な答えが返ってきますが、集められた兵士たちの中には57名の女性兵士がいました。そのうちの
数名の兵士と話をする機会がありました。話を聞くことのできた女性兵士たちは、12~3歳のころ、村から
拉致されて、反乱軍のキャンプに連れて行かれ、娼婦として男性兵士の相手をさせられ、そのうち子供が
でき、父親は誰だか分からず、その子供もそのうち兵士となり、娼婦として使い物にならなくなると、女性
自身も銃の撃ち方を教えられ、麻薬を飲まされて戦いに駆り出される、と言う本当に悲惨な状況の中で生きて
きた人々でした。女性も子供も、戦いが終わったからと言って、出身の村には帰れないのです。このような
女性たちにどのような救いの手を差し伸べたらよいのか、途方にくれる思いでした。DDR活動の中の「R」,
すなわち、社会復帰支援の重要性を本当に実感させられました。
本日は、私の経験してきた範囲で、アフリカを中心とした国連活動の一端を御紹介したいと言うことでお話し
てきました。様々な分野で、国連は世界の平和と安定のために努力してきていますが、それが意味あるものと
なるためには、市民一人一人の理解と支援が不可欠です。アフリカの市民の問題は日本の市民には関係ないと
言えるでしょうか。コンゴの女性兵士たちも、私たちと同じように、現在私たちがが生きている世界の一部です。
そのような意味で、皆さんに国連の活動を知って、考えて頂ければと思います。また、政府に市民として、働き
かけて頂ければと思います。           以上
                    (文責、溝垣善二郎広報部長 早大教育学部卒)